近現代史の旅 12回目。当時文明国と自認している国は、英、米、独
伊、露、オランダ、仏、などの国がお互い文明国と認め合っていました。
しかし声を大にして言いたい、これらの欧米列強の国より日本の方が
はるかに文明国でした。
前回でも指摘したように当時の日本の識字率は75%と欧米諸国より教養・
文化において圧倒的に上でした。日本は江戸時代に既に自然発生的に寺子
屋があり武士階級の子弟のための藩校が並立して存在していました。
つまり日本は江戸時代からすでに世界一の教育立国だったのです。
明治政府は一挙に近代学校制度を作り上げようと江戸時代から続いて
いる寺子屋を小学校に転換しました。その数はわずか数年で2万6千ほど
の小学校を設置しました。
明治19年(1886年)に具体的な義務教育規定が出され明治43年(1910)
には100%に近い数字を示し、小学校の普及はすでにほぼ完了しました。
このようなすごい教育立国の国は日本だけです。文明国と自認している
欧米諸国が裸足で逃げ出すくらい日本は教育度の高い国だったのです。
フランスやドイツやイギリスなどのヨーロッパ諸国での教育の格差は階級
格差のせいです。現在でもなおエリート階級、中間実務者階級、労働階級
でハッキリと区別しています。現在も続いているヨーロッパ没落の最大
の原因の一つです。
文明国を自認するヨーロッパ諸国は、彼らだけに通じる国際法の下で
平等な関係を結んでいました。彼らはその国際法のなかで、国家という
ものを、文明人の国、野蛮な国、未開人の国の三種類に分類していました。
彼らは日本国を野蛮人の国として扱い、まだ対等な関係を結ぶほど政治
的に、或いは文化的に成熟していないと考えていました。
日本はヨーロッパからあまりにも遠すぎた、そのために誰も日本国の事を
知らなさすぎた。日本と戦って負けたロシアも日本を野蛮国として舐めき
っていました。だから前回のブログで日本が勝ったのは歴史の必然だと
書いたのです。教育立国であり技術立国である日本に野蛮なロシアが
敗れるのが当然の成り行きです。
アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」という本があります。
1862年(文久2)に江戸に来て、1869(明治二年)にイギリスに帰国
するまでの回想録です。この回想録によってイギリスのトップ層は日本の
ことを非常に文化度の高い国であり、礼儀正しく信用できる民族として
認識していました。
日英同盟は「ロシアを牽制するために日本を将棋の駒として使った」と
歴史書には書かれていますが、過去一度も他の国と対等の同盟を結んだ事
がない誇り高い超大国のイギリスが極東の野蛮国と言われている日本と
同盟を結ぶなど普通では絶対に有り得ないことなのです。
英国はアーネスト・サトウの回想録や過去の戦いの経験から、日本を同盟
国にふさわしい国だと評価していたからだと思われます。つまり日本は
野蛮国ではなくヨーロッパに引けを取らない文化度の高い国だと認知して
いたからです。
しかし日本を知らないロシアは日本を野蛮国だとなめきっていました。
ロシアは日本をまったく恐れていなかった。ロシア皇帝は日本を猿呼ば
わりして、日本の挑戦をむしろ喜んだくらいです。
ところが日本軍は意外に強かった、日本とロシアの戦場は中国大陸の満洲
です。満洲は日本と海を隔てているために陸軍の兵士は海を渡って戦場に
行くことになります。一方ロシアは旅順に本拠地を、ウラジオストクに
太平洋艦隊を置いています。
日本海軍はまずそのロシア太平洋艦隊を撃滅しないと勝利へのみちは開け
ないが、ロシア太平洋艦隊は旅順港の港内からなかなか出ようとしなかっ
た。ロシアはバルチック艦隊の到着を待って一気に殲滅する作戦です。
極東のロシア艦隊は旅順の主力艦隊のほかにウラジオストクにも巡洋艦
数隻と水雷艇17隻からなる小艦隊がありました。この艦隊は日本の輸送船
や商戦を狙い撃ちし、日本の沿岸を我がもの顔で動き回り、東京湾口に
まで出没して日本国を舐めきっていました。
しかし開戦から半年経っても補捉ができず、敵を捕らまえられない上村
第2艦隊への非難を大新聞は大々的に報道しました。しかし上村艦隊も
隊員も一言も言い訳せずじっとウラジオ艦隊を撃滅する機会を待ってい
ました。
東郷平八郎率いる連合艦隊主力が黄海でロシア艦隊と砲撃戦をしている
とき、上村第2艦隊は日本海を北上していた。ウラジオ艦隊がロシア旅順
艦隊を援護するために必ず日本海に現れると読んでいたからです。
上村中将の予想通り、ウラジオ艦隊は朝鮮半島の蔚山沖に現れた。砲撃
戦を展開、やがてウラジオ艦隊の3隻が火災を起こし、戦場離脱を始め
た。戦闘はスピードで勝る日本艦隊が優勢で、次々と火炎と黒煙を上げ始
めた。そのうちの一隻であるリューリック号が沈没、漂流する大半の乗組
員は上村中将の命令で日本艦に救出されました。
民間の商船などを沈められ救出もされなかった恨みを超えて 救助に力
を注いだ上村中将の行動は直ちに全世界に報道され称賛の的となった。
(乗組員872名のうち627名を救出)
戦況の逆転をめざしてついに切り札であるバルチック艦隊を極東に派遣。
バルト海の艦隊を3万キロも離れた極東に派遣する目的は、旅順の第一
太平洋艦隊と合流して日本海の制海権を奪い返し、満州の日本軍への
補給を途絶えさせることにありました。
しかし戦闘が始まってわずか30分で大勢は決しました。バルチック艦隊の
主力艦のほとんどが火災を起こしていました。後年「必殺の丁字戦法」に
ついて語られますが、むしろバルチック艦隊の目の前で回頭に成功した
日本海軍の高速化にも言及すべきです。
宮原式エンジンによって艦船のスピードは世界最高でした。それと連合艦
隊が使用していた伊集院信管と下瀬火薬の威力でもありました。
ロシア艦隊は次々と炎上、東郷長官は各戦隊に砲撃中止を命じた。そして
主力に代わって夜の海の出撃したのが駆逐艦と水雷艇隊でした。各艦艇は
次々と魚雷を打ち込み、敵艦隊にとどめを刺しました。
連合艦隊は一昼夜の戦闘で撃沈19隻、捕獲6隻の大勝利をあげました。
日本側は各艦とも軽傷で沈没は水雷艇3隻のみでした。その沈没した水雷
艇は味方同士の衝突事故です。まさに完勝でした。
世界の海戦史上たった一昼夜の戦闘で大艦隊が壊滅した例はこの日本海
海戦をおいて他にありません。このニュースに接した世界中の人々は驚愕
しました。日本をアジアの遅れた野蛮国と見ていたためにその驚きは天地
を揺がし、この日本の勝利にアジアの民衆は熱狂しました。
全ての虐げられた民衆の目覚めは日本のロシアに対する勝利から始まり
ました。世界中の国民が夢想だにしなかった事を日本はやり遂げたのです。
日露戦争は野蛮人と称された虐げられた民衆を勇気づけ、新しい夢を与
える歴史的な夜明けでした。
(続きは次回にて)
