学生諸君に刺激と覚悟を与えるために書いた文章に対して論客の皆様の
知的な反応・反論を興味深く読まさせていただきました。
英語はあくまで仕事上のツールであって日本語を軽視しているわけで
はありません。その国の言語がその国の人達の性格を作り人格を作って
いきます。言葉は単なる意思疎通だけでなくその国の文化度でもあり
ます。
例えば上記に「興味深く読まさせていただきました」と書きましたが、
この使い方は日本語独特のものです。「させていただきました」という
言葉遣いは謙遜の意識から出ています。
上記の文章を外国風に書けば「興味深く読んだ」あるいは「興味深く見
た」と書きます。これだと「読んでやった」「見てやった」となり
あまりいい感じがしません。
日本語は常に相手を思いやる気持ちが土台になって作られてきました。
思いやる気持ちは人間同士だけでなく自然に対しても思いやる気持ちを
持っているのが日本人です。だから俳句や和歌が出来たのです。
中国唐代の代表的な詩人である孟浩然の有名な漢詩である「春暁」を
例にとって考察してみます。
春眠不覚暁(しゅんみん あかつきをおぼえず)
処処聞啼鳥(しょしょ ていちょうをきく)
夜来風雨声(やらいふううのこえ)
花落知多少(はなおつること しる たしよう)
春の眠りは、気持ちよくて、朝になるのもきがつかないほどです。
あちらこちらから鳥のさえずりが聞こえます。
昨夜から雨が激しかったようだけど、花がどれだけ散っただろうか。
日本人はこの漢詩の風景だけでなく「激しい風雨にもまけずに鳥たち
は朝になればさえずってくれているが、せっかく咲いた花がどれだけ
散っただろうか、花が可哀そう」という自然を思いやる気持ちまで
感じて解釈します。
はたして孟浩然は日本人の様にここまで鳥や花に対して思いやって
この詩を作ったのでしょうか?そうとは思われません。
孟浩然は、彼を評価していた韓朝宗との約束を飲み会のためにすっぽ
かして朝廷への推薦をダメにしたり、また楊貴妃を寵愛した事で有名
な玄宗皇帝の前に出た時も不平不満を詩にして玄宗を怒らせたとあり、
ます。つまり彼は謙遜の人ではなかったようです。
日本人のあらゆる物に対して思いやる気持での解釈が、漢詩をより
価値の高いものにしていったと思われます。
日本語の持っている深みが日本の文化度を高め日本人の人格を高めて
いったのです。
日本語の素晴らしさを証明するために1983年に来日して現在、拓殖
大学国際開発部教授の「呉善花氏」の自国語であるハングルについて
の文章を検証してみます。
「ハングルは簡単に読み書きできるものの、深い高度な概念を駆使
する言葉としてはおよそ不向きな文字である。ハングルはある意味
全部をひらがなあるいはカタカナで書いたようになるため、どうし
ても深い思考を導く力を持つことが出来ない。
それにもかかわらず、韓国では、わがハングルこそ世界で最も科学的
な文字であり、万能の文字であると自慢している。このハングル絶対
主義がある限り、韓国は精神的に貧弱な文化と科学しか産み出せない。
あまりにも決定的であるだけに、とうてい残念などという言葉では
言い表す事ができない。身を切り刻まれる痛みとともに訴えるしか
ない悲しい問題である」と書いています。
彼女は日本に永住し 日本語を喋り日本の文化に染まり、日本的な
思考が身についてしまった。だから自国語であるハングルの弱点を
知ってしまったのです。日本語恐るべし。
彼女にここまで言わしてしまった日本語の素晴らしさに、我々は
自信を持ちましょう。2千年間、日本語のお陰で日本人の人格が高まり、
内に秘めるポテンシャルはどこの国より大きく育ったのです。
日本語がある限り日本の未来は明るいです。
少し大げさですか? 私には謙遜の精神が欠けているようです!
