ついに堪忍袋の緒が切れました。
もはやこの人に対して論評する価値も間違いを指摘する価値も無意味です。
「言動がブレ続ける鳩山首相」「あまりにも軽い発言」「首相発言、現実と遊離」
など新聞は書いていますが、いくらいってもこの男にはこたえません。
石破自民党政調会長が「どこかが決定的におかしい」といっていますが、
おかしいどころではありません、完全なる「あほう」です。
世間の目というものはつねにものの外側ばかりみて判断してしまいます。
この男の外側は東大卒業、スタンフォード大学大学院卒業、祖父は鳩山一郎、
などの経歴を見ただけで、頭が良い人、育ちの良い人、と外形でほとんど判断して
しまいます。
高価なきれいな箱だからといって、価値あるものが入っているとはかぎらない。
最近の僧侶のようなもので、内的訓練と修行を積まなくても、ころもと数珠と
読経とだけで立派なお坊様と安心してしまうのと同じです。
世間というものは単純に「つつみ」でものを判断して、物の表裏を見抜こうと
しない、ものの実相を見通すことに怠慢です。
例えば警察官の仕事が泥棒を捕まえたり、町の治安を守ってくれるものと誰でも
信じています。その巡査が逆に泥棒の味方をして、家の鍵は掛ける必要は
ありません、泥棒の好きなようにさせなさい、と言ったらどうします?
巡査が鳩山首相で泥棒が中国に置きかえれば納得するでしょう。
つまり国民は、官服を着た巡査(首相)とは人民を守る者だと信じています。
ところがこの巡査は国民を守るどころか、家に鍵を掛けるな、塀は壊せと
言っています。
国民は、自分の仕事を全く理解していない人を首相に選んだからいけないの
です。その人の人格力能というものを吟味せず、ただその外形だけで「教養の
ある人」「優しそうな人」「感じの良い人」だけ見て判断したからいけない
のです。
ですから人間の目というものほどあやしいものはありません。目だけで
映る光線をたよりに、勝手な危険きわまる判断をするのです。
この男のようにまだ己を調えきっていないような人が、かりに代議士の衣を
着る、それも普通のころもではなしに、首相という日本の運命を左右する
衣を着せてしまいました。
アメリカに言われるまでもなくこの男は間違いなく「あほう」です。
しかしその「あほう」を選んだ国民はもっと「阿呆』です。
