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日本人とは?     9月22日(月)


いつもながら立派なコメントを多くの方からいただき、ただただ驚愕
の思いです。

前回は私のブログで、日本語の素晴らしさと、世界中の資料を
翻訳していただいた先人の努力を、外人から教えてもらった事を
書きました。その時 ほんの少し仏教について触れました。
結果、知識の深い 考えさせるコメントをいただき、目から鱗の状態
になりました。

今日も日本人について考察してみたいと思います。

浅学な私が神の領域に踏み込むほどの勇気はありませんが、外人と
日本人の精神の違いを経験に基づいて考えてみます。

皆様のような深い知識を基にして考察するのではなく、あくまで
経験上のお思いで書きます。

昔、アメリカ人から「はらきり」について聞かれました。彼の会社は
デラウエア州にあります。デラウエア州はニュヨークから電車で
2時間程の距離で 非常に美しい町です。
アメリカで2番目に小さな州です。

彼は若いときに大阪や岡山で暮らしたそうです、そのとき日本人の
優しさと親切は忘れることは出来ないと常に私に語ります。

ところが突然「切腹」について質問されました。

突然のことで言葉に詰まりましたが、日本人の名誉に掛けて必死に
喋りました。

「日本民族は、生命よりさらに尊きもの 存在を知っているからです
だからその尊きものの為に一命を投げ出すことが出来るのです」

命よりも大切なものとはいったいどの様なものですか?

「それは個人によって違います、そのときの立場や状況によって
変わります。日本人の文明は死を自覚した文明です。」

私のしどろもどろの説明では彼を納得さすことは出来ませんでした。
そこで後日手紙を書いて送りました。そのときの文面は残って
いませんが記憶をたどって書いてみます。

キリスト教信者の欧米人は生命に執着した文明です。つまり、生命の
始めとか、二つの生命の結合とかを重要視します。だからあなた方は
誕生とか、結婚を派手にお祝いします。

あなた方欧米人は、生命への過信が強すぎます、生命への過信は力の
肯定につながり、力の肯定が暴力を生みます。

しかしその力の肯定が結果 人類に立派な物質文明を打ち立てて
くれました。

日本には生者必滅(生まれたものは必ず死ぬ)会者定離(一度会った
物はどうしても分かれる運命)という言葉があります。
これらの言葉は日本人に逃げることも、どうすることも出来ない、
人間は死ぬものだと言う事をはっきりと自覚させてくれました。

つまり本当に、正しく生きんがために,生とともに死を覚悟した人生
なのです、日本人は死についての たしなみと、しつけをされて
きたのです。

このような事を書いて彼に送りました、彼から返信が来ました。
「貴方が哲学者であることだけはよく分かったが、それ以外は
理解不可能です」と書かれていました。

彼に手紙を送った後で、私の書いた日本人は100年以上前の日本人で
現在の日本人ではないという後ろめたさにおそわれました。

昔、福田康夫の父である福田赳夫氏が首相の時、日航機ハイジャック
事件で「人命は地球より重たい」として犯人側の人質解放の条件を
飲み、身代金の支払いおよび、囚人の引渡しを行ったことで、
テロリストの脅迫に屈したと国際的に批判を浴びました。

福田赳夫は私の書き送った日本人と180度違う、それに最近子供が
殺人を起こすと、必ず校長先生が出てきて、「人の命の大切さを
もっと子供に教えなければ」と不思議なコメントします。

私の書き送った日本人は現在ではいない、ひたすら命を大切にする
平和主義者ばかりの臆病者になってしまいました。

死を自覚することによって逆に生命とは何かを認識できる、すなわち
人間は社会に出てからわずか50年ほどしか 生きられないじゃあ
ないかということを考えると、生きている間になんとか自分のため
にも、人のためにも、世の中のためにも少しでもお役に立ってゆきたい
という気持ちがでてきます。

子供たちに生の賛美ばかり教えるのではなく,死についても認識
させるべきです。死を見つめることは、決して生命の否定どころか、
真に正しく生きること、すなわち人生の理解を深める事になります。

生きることだけが生命の全体ではない、国の為に、家族の為に、
日本文化を守るために、身命を惜しまぬ心意気こそ子供たちに教える
べきです。

今日は論客の皆様につられて、偉そうなことを書いてしまいました。






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コメント

初めまして、いつも楽しみに読ませていただいてます。
様々な経験や知識、見聞には驚かされてばかりです。
僕は一学生でしかありませんが、ブログ主様の考えは他に見ないため、大変参考にされていただいてます。前まで感情ばかりを優先させていた自分を恥じるばかりです。
まだ学ぶ身ではありますが、応援させてもらいます。

物心ついたころに天国や地獄の話をされ、
死後の世界を教えられると子供は死の恐怖を感じ、
死を身近に感じられるようになります。
そうして育った子は簡単には悪さをしないし、
他者への優しさが自然に身に付いていることでしょう。
幼稚園をお寺が運営して仏教教育しているのは結構、理にかなっているのです。
その後、死を身近に感じた人間がどのような方向へ進むかは、
その人間の資質にもよりますがね。

はじめまして。
いつも見させていただいて勉強させてもらっています。
今回のお話にはまったく同意します。
というのも私は、先日のエントリーでも紹介されていたスリランカが中心地である最初期仏教のテーラワーダ仏教を少しばかり学んでいるのですが、テーラワーダのお坊さんには修行の中のひとつに死体の腐っていく様子を見るという修行があります。
それは死を心の底から認識し、体はただいろんな因縁が重なってたまたま動いてるだけで、生きること自体に特別な意味や価値などないという真理を悟るためだそうです。
今の日本の異常な自殺者の多さは「命は何よりも大事だから生きなければならない」というような表面上の綺麗事には何も変えられないということを物語っていると思います。

寂しいことにどうしていいか分かりません・・・

当ブログの主張される考え方には全てが賛意を感じることばかりです。
ふと思いをいたせば、本来われわれが日本人として日常意識せずして口に出す言葉、また意識せずして行なう行動。これが日本人の常識と言われるものであり、そしてこれこそがブログ主の主張される考えと同一と思われます。
かつて、といいましてもわずか40~50年以前の世の中ではありますが、その当時この常識というものを当たり前に多数の大人の日本人が身につけていました。(当時でも一部異なった人間がいたことも事実ですが)。
老人は老人として知識の有無に関係なく俗世を達観した確固とした人生訓を持っていました。70になっても80になっても若者と変わらぬ世界にどっぷりつかりまくった現代の老人はほんの40~50年前の老人とは全く異質の「化け物」です。
そうして戦後60年。
””敗戦時生存していた人間””を筆頭として戦後60年に命を宿した日本人ことごとくがもはやかつての日本人とはうかがうことすら不可能なあわれな人間に堕落してしまいました。
戦後三世代このような堕落の毎日を過ごせばもはや家庭で真っ当な常識を有する人間は一人も存在していません。学校ではご存知のとおり。企業・公務員、全ての組織にもこの堕落人間を鍛えなおす人間は在籍していません。
たまに本当にまれに家庭や組織にいたとしてもとてもまともに主張できる環境にはありません。キチ外扱いが関の山です。
これも全てが戦後の政治、つまり「国会議員」の責任です。戦後在籍した国会議員全員を死刑にしても悔やみきれません。
当ブログのような考えが多数となることはジャンボ宝くじに当選するより難しいと思います。
当ブログを読ませていただき同感とうなずきながらも、かといって日本の世の中が全く変わらぬ時間を過ごしている毎日を見るに、いったいどうすればいいんだろう。というか、もうどうにもならないんではないか、という寂しさだけが残ります。

はじめてコメントさせていただきます。
宗教の話はたいへん紛糾しがちなものですが、日本人的な生き方のひとつの参考として
実際に神社に舞を奉納する「舞女」というお仕事をなさっていた方のお話です。
http://www31.atwiki.jp/siranai/pages/634.html

頭だけの理屈ではなく、体で文化や社会を知っている方のお話は
何故か頭にすっと入ってくるものだと思いました。
ブログ主さんの切腹に関する説明が、海外の方に通じなかったのも、
それが体で体験したことでなく知識をもとに頭で考えた事であったためかもしれません。
普通に忙しく現代世界で働いてたら、切腹という文化を体で知る機会など
なくて当然なので、通じないのは致し方ないことかと。
逆に、ビジネス現場で体験なさったことをベースにした文章は
やはり多くの人に通じやすいのだと思います。

死生観

 う~ん、今日は死生観ですか、矢継ぎ早ですな(笑い)。

 神道の場合、死んだら霊魂は山に宿ると言うことになっている様です、善く山岳信仰や修験道と言う単語を耳にします、「お山」そのものをご神体と考えている場合もあります、鳥居は「お山」の入口、つまり、神の領域への入口を示すとも聞いたことがあります、お山は神の居場所に通じるところとして、神聖にして侵すべから非る処なのです、ダカラ修験道は山伏が行いますし、山岳の頂上には、神界への新たな入口として神社の本社が設けられているワケです。

 日本のカミは、人間の姿をしている場合もあり、ソウでない場合もある、異形の鬼だったり、大きな木だったり、将亦、小さな石だったりもします、日本人にとって、大地は祖先の血肉であり、流れる水は生命そのもの、魂はそこ此処に隠れ宿っていると考えて善いのだと、つまり、日本列島自体がご神体だと、神道は考えているのです、アニミズムと括っても善いですが、其処にカミがいらっしゃるという感じを持たせる処が、日本には確かに有ります。

 ソレを感応出来るのは、其処に暮らす我々がその列島を構成する魂達の子孫だからなのです、自然(至善=カミ)の中に生まれ、自然に包まれて育ち、そして、死んで大地となるを繰り返している限り。

 年々歳々の歳神様のご降臨は、年が改まるお告げがある正月と、お盆の時期の年2ですが、祖先霊が歳神様のワケ御霊をご案内してきますから、子孫がお迎えして歓待するワケです、シナや朝鮮のモノ(旧正月や秋夕)とは、亦違っている様に思います。

 日本で神道が実感できるのは、その穏やかで風光明媚な気候風土、清浄で溢れんばかりの水資源の豊かな環境、四季折々の変化の中で、人間が自然に包摂されて生きて行く事が可能だからでしょう、日本ほど自然に恵まれた場所は、世界でも限られていると言って良いと思います。

 唯、そう言う自然環境は、縄文期から、色んな時代を経て完成したモノです、例えば、九州だけに限って云っても、2万年位前には、阿蘇山が山体消滅するほどの大爆発を起こし、9千年前には鹿児島の姶良火山が大爆発を起こし錦江湾を形成しました、その時、麓の上野山遺跡周辺に居住していた古代人を全滅させています、7千年くらい前には、トカラ列島付近の海底火山が大爆発を起こし、沿岸の薩摩半島の水迫遺跡に住んでいた居住民を是亦全滅させています、他にも、姶良火山の名残である桜島の大爆発が幾度も起こって居ます、日本は全島が火山で出来ていると言っても良い、火山に地震はつきものですから、古代から列島は、地球の新陳代謝現象の多い処でした、我々の祖先はそう言う自然の中で生を繋いで来たわけです。

 天災は、人の力の及ぶところではないのは現代でも同じ事です、地震や火山の爆発は偶にしか起きませんが、台風、大雨、大雪の類は毎年、若しくは数年毎にやって来て人々を苦しめます、しかし是がもし、来なかったら、干ばつが起こり、緑の大地も、山の緑も枯れ果ててしまいます、台風や大雨は、自然も生きている証拠なのです。

 自然(カミ)と共に、自然(カミ)の一部として生きる、是が日本人の死生観ではないでしょうか。

>ひたすら命を大切にする
平和主義者ばかりの臆病者になってしまいました。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm138808
これを思い出しました。
サウスパークのアメリカの歴史

武士道

「はらきり」、つまり「切腹」は基本的には武士の自刃、もしくわ処刑の方法だった訳ですが、この精神的なバックボーンである武士道、大和魂は管理人さんご指摘の通り、明治維新まで、あるいは戦前までの日本人の道徳、教養、美徳といっても良いと思います。

新渡戸稲造の「武士道」が英語で出版されたとき、時のセオドア・ルーズベルト大統領は30冊取り寄せて、5冊は自分の子供に、25冊は議員や閣僚に配ったといいます。「これを読め、日本の武士の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべき事である」と。(渡辺毅、道徳の教科書、P275-276)。

しかし、日本が敗戦を迎え、GHQの洗脳と教育勅語の廃止、あるいは神道指令等々によって、日本の精神的バックボーンは粉々にされて今日に至っています。安部晋三前首相の教育基本法の改正は、それを取り戻す第一歩だったのですが…。

こんにちは初めまして、いつも読ませていただいています。

今の日本人には最低限の宗教的な価値観が必要だと思います。
人の命が地球より重いかどうかは図りかねますが。
ちなみに「人の命は地球より重い」の初出は
岡本喜八監督の「独立愚連隊西へ!」(50年代)のなかで
加山雄三演ずる隊長だかの台詞だったと思います。
破天荒なギャグ戦争映画でしたが。

Oh !! My Budda !!

"Oh !! My Budda !!"は昔聴いていた曲に有ったフレーズで結構気に入ってました
海外の旅行先で出会った人に使うとそこそこ受けるのですが、意外性かミョーな語感のせいかなと・・・何となくムズムズする感じですか

でも昨日と今日のエントリーとコメントを見ていて考えたのは"My Budda”って
変ですよね・・・神にしろ仏にしろ自分の所有物って感じではないです
彼らは”God”ですら自分の生きる為の利益にしてしまっている感覚なのでしょうか
則天去私的な我々との文化とはズレが有るのかなと・・・

だとすると「中」(ユダヤもですかね)は
Oh !! My GOLD !!

で、「韓」は
Oh !! My DOG !! (色は赤)・・・?

生まれてくるときは誰でも一生懸命なのですから、人生の終わりも同じように一生懸命でありたいですね。

世の中には切腹、姥捨て山、特攻隊など、耳にしただけで嫌悪感を示す方や、悲惨さだけを強調した話に過剰反応する方も多いですね。もちろんその中には正論も大いに含むでしょうけれど。

しかし、自らの生命を、自らの意思によって、最後の最後まで一生懸命全うする。後に残される者に生命をもって何かを示す。…こういった行動は、後世の“人生の課程や、最後を怠けようとする者達”がいくら奇麗事を並べても、決して霞む事は無いと思うのです。

現在は切腹はないでしょうけれど、私は子を持つ親として、人生の最後に、(例えそれが痛みを伴うものであっても)自分の生命で、子供たちに何か示せるよう思っていますし、また、それを受け止めてくれる大人に育って欲しいと願っています。

私の場合

患者を診ていて人生の中では大きな取り返しのつかない
ミスをするかもしれない
何が何でも無くそうとしてもミスするかもしれない
私が免許を受け厚生省名簿に載ったときから
万が一の場合の責任を取らざる得ない場合に備え
短刀を用意してあります
短刀と共に職責のため申し訳ないと家族宛の
遺書も用意して仕事をしておりますが
覚悟を決めるとミスはしないものです。
我々に責任のあり方取り方を教えてくれた
先人に感謝しております。

いつも勉強させていただき誠に有難うございます。
私は精神的に極めて浅い人間ですが、日本人の心の中には 「人間は必ず死ぬもの、命は限られたもの」であるけれども 「名誉や不名誉はずっと残る永遠のもの」という思いが根底にあると思います。
人は誰でも死ななければなりません。どうせ死ぬなら国のため、名誉のために死ぬたら幸せと思うこともあります。しかし苦しいから、辛いから死んでやろうというのはまずいと思います。何とか生き抜いて、生き抜いて、その生き様を示すことこそが、この世に生命を与えられた者の使命だと思います。

お釈迦様の答え。

お釈迦様は弟子達の質問に色々答えているが、二つのことは答えなかった。一つは人間は死んだらどうなるか?もう一つは宇宙に果てはあるか?
この二つの質問には答えなかった。先だって戸塚洋二という物理学者が亡くなった。ノーベル賞に一番近い人と言われていた。彼は素粒子に質量が有ることを発見し、実証した。アメリカ大統領であったクリントンは日本から世紀の大発見がもたらされたと、記者会見で紹介した。
素粒子に質量があると言うことは何を意味するか?少なくともこの地球が
存在する銀河系宇宙は何時の日か、何億年あるいは何十億年の後には
消滅すると言うことである。お釈迦様が答えなかったことに、戸塚さんは答えを出したのである。故にクリントンは素粒子に質量があることの意味を
理解し、世紀の大発見と言ったのである。
残念ながら日本の政治家には素粒子に質量があるという事が何を意味するのか?理解しなかったのか?クリントンのように世紀の大発見が日本の科学者によってもたらされた。これは日本の誇りであるというコメントは寡聞にして聞かない。また故に戸塚さんはノーベル賞を受賞しないままに亡くなってしまった。師の小柴さんは痛恨の極みと嘆いた。残念である。

 最近しみじみ思うことがあります。「今の世で、子供に生まれなくてよかった。」と。ちなみに子供は「子供」です。「子ども」ではありません。また「障害者」は「障がい者」ではありません。このブログを読みにいらっしゃる方で、いったい誰が「子供」の「供」は「お供」という意味で悪い言葉、また「障害者」は「害(がい)をなす人」などと考えるでしょうか。一度も考えたことのない方ばかりだと思います。こんな事に気がつく方が不思議です。私たちは全員子供でした。また障害を負った方を近くに見聞きして「気の毒に」と思うことはあっても「害」などと思ったことはありません。私の父も障害者手帳をもらっていましたし。

 さて子供の世界は携帯電話、個室、お金、ゲーム機、旅行(できればハワイなど海外)の経験、ピアノなどの習い事や高価な衣服、高級化粧品などが重要なものになっていると見えますが、そうなのでしょうか。昔は皆ビンボウでしたから、読書や金のかからぬ遊びを行っていたと思いますが。今の世で子供だったら、けっこう貧乏育ちの私は悲しく卑屈な子供だったと思います。

 今の子供はけんかの仕方を知らず、たとえばハサミで相手の目を突いたり、いきなりカッターで切りつけたり、棒で殴ったり。そういうことをしてはいけない、と習っていないのです。中国の子供たち(小皇帝)を笑っていられません。
 そんな中で、一つ提案があります。子供のゲームで「主人公が生き返る」設定はなくして欲しいと思います。大事に育てた主人公でも、一瞬で死に、そして二度と会えない。そのつらさはゲームに入れ込んだ子供ほど感じるでしょう。しかし死んだ者は生き返ることはないのですから。それを知るべきです。
 
 それと近親者の葬儀には子供を参加させたいですよね。学校や塾より「恐かったおじいちゃん」が死んで硬直し、焼かれて灰になるのを見せる。それこそが生と死を考えるよき教育になると思います。

熊さん

短い文章ですが「熊さん」の言われること理解できます。
昔は「夜店」でそう言う出しものが有ったのです、大きな紙芝居です。現世で悪い事をした人間は来世で非常に大きな負い目を受ける、人に優しく人の為に仕事をすれば素晴らしいモノが有る。

各お祭りにはその出しものを持って、大きな畳叩きの様な竹の棒で口上を述べる、子供心に自然に体に染みついてしまうのでしょう。現在は映画でもドラマでも人殺しを平気でやる少年の心に良い影響を与える訳が有りません、せめて大人は将来に夢を与える様な映画・ドラマ作りもして欲しい。

葉っぱのブレディ

限りある生であるから貴く、輝くのではないでしょうか?
死なく永遠の命なら、良く生きるための努力はせず、無為に時間を過ごす気がします。
日本人はそこを理解し、自我を超越し、名誉、家族、国のため全をなすことを誇り、喜びとすることができる。

葉っぱのブレディです。

>国の為に、家族の為に、日本文化を守るために、身命を惜しまぬ心意気

江戸時代、武士道論の大成者達が同じことを言っています。
山本常朝(葉隠)「武士道とは死ぬことと見つけたり」、主家への忠義であるならば、主家の安泰ために必要な諫言だと自らが信じるのであれば、主君に殺されても、主君を害することになっても、それを貫き通すのが真の武士道である。
山鹿素行(古学)「主家への忠義を超えた、天下への忠義、公共のための忠」、主君に対する以上に、天下万民のために、自らが正しいと信じた道を貫き通すのが武士道である。そのためには、生命を捨てることも厭わない。

このような武士道に基づいた行動は、大石内蔵助の赤穂浪士吉良邸討ち入り事件、尊皇攘夷派薩摩藩士が主君島津久光に上意討ちされた寺田屋事件にみることができます。

詳しくは
KNブログ 日本史についての雑文 その23 武士道 
をご覧下さい。お勧めです。

いかにも浅知恵のことをいって、ブログ主さんには、申し訳ないのですが、
この種の話になると、日本の特攻隊を思い出します、自分は、いわゆる現代っ子ですから、よくわからないのですが、主さんの言う通り、死に価値を見出さないと生に執着し、絶対的な自己といった西洋近代の傲慢な価値観に陥ってしまうと思います。ところが、自分は死んだらお終いだ、なんて考えてしまいます。しかし、だからこそ、死をもってまでして責務を全うしようとした彼らに感動するのです。こうして考えると本当に難しいですね、そもそも人間の尊厳てなんだ?アメリカの与えた個人、自由への要求。しかし、道徳が失われたところでの自由は楽園ではなくジャングル化し、それを抑えるためにセキュリティーで拘束、結局自由はなくなりましたとさ・・・

お釈迦さまの答え

>お釈迦様の答え。

私は以下のように覚えています。
お釈迦様に弟子が質問をしました。「人は死んだらあの世というところに行くのでしょうか、あの世とはどのようなところでしょうか」
お釈迦様はその弟子に答えました。「あの世があると考えてもいけないし、無いと考えてもいけない。人は自分が死んだらどうなるかなどと考えてはいけない。今生きていることのみ考えなさい」「また人の死後にかこつけて金にするなぞとんでもなく悪いことだ」とその当時を戒めたとか。
だから、今ある葬式仏教なぞお釈迦様から見ればとんでもないことなのです。

私もこれにならって、死後の自分は「無」になると信じて生きています。そう自分が生まれる前の「無」になるのです。

私見ですが、

西洋→いかに生きるかを重視
日本→いかに死ぬかを重視(死によって意識的に生きる)

という日本人の感覚はいまでも健在だと思っております。

動物も植物も命は有限。勿論、人も。だからこそ命を慈しむ。日本の古い美術品は、繊細かつ精密に動植物を描写した作品が少なくありません。
欧州の美術品は華やかで力強さを感じます。その分人間の傲慢さも見え隠れします。
「生きる」のか「生かされている」のか?キリスト教の教えのままなら後者であるはずですが、私には違う様に感じます。白人が救われる日は、まだ遠い様です。感謝を日本人も忘れてしまっている人が増えて来ました。
「ありがとう」・「うかげさまで」言える慎ましさを取り戻したいですね。

失礼。「うかげさまで」ではなく、「おかげさまで」に訂正いたします。ついでに、これはあくまでも日本人同士に限る事だと思います。外国人で日本人の良識が通じる人は限られているでしょいから。

ハラキリとは武士の究極の責任の取り方であると同時に、他人に自らの命を奪われる屈辱からの逃避でもある。
幕末の世に外国人に危害を加え切腹を申し付けられた武士が、自らの切腹を見物する外国人に向かって、自分の腸を掴みだして投げつけた様は無作法ではあるものの、自らの死に納得いかぬ憤懣を現したもの。しかし、これは処刑の一形態に過ぎない。

ハラキリは全責任を一身に負うことで、その非や罪が他(組織、一族)に及ぶことを防ぐ防衛手段であり、その勇気により一分の名誉を守る自己防衛手段でもある。または、自らの主張や異心無き事の証を示す最大限の証明手段でもあった。

生きる(家名存続)ことへの執着心、恥を恐れる羞恥心がハラキリの根源にある。

あえて狂言回しを演じさせていただきます。

どうしても「切腹」には論理を越えたある種の熱狂や陶酔、
宗教的狂信無しには理解しきれない部分を感じます。
その陶酔?はどこから来るのでしょうか?

生物の本能の基本は「生きる事」です、しかし切腹はその
生存本能に反した行為です。
ならば何故、日本人は「切腹」をしてきたのでしょうか?
本能に忠実と思われる自然界でそのような自己犠牲が見られるのは
・カマキリが交尾の後、雌に雄が食べられてしまう
・母親が自らの身を挺して子供を守る
等でしょう。
ドーキンスの「利己的な遺伝子」説では、
それは遺伝子の保存を目的とした場合に理にかなっていて、
一見したところ、どんな犠牲的な行動や利他的な行動も、遺伝子に
とっては利己的で合理的な振る舞いでしかないということです。

日本人には自己犠牲に陶酔する遺伝的素因が多いのでしょうか?
万世一系、単一民族、共同体内の絆といったフィクションで
それを助長してきただけなのでしょうか?
(全面的に私の意見というわけではないのですが、活発な議論の為に投稿しました。)

精神性が高い民族

>「日本民族は、生命よりさらに尊きもの 存在を知っているからです
だからその尊きものの為に一命を投げ出すことが出来るのです」

古来から、魂のどこかに日本人は、永遠の命(精神)を知っている・・・
日本人とは、本来そういう言葉で説明できる人々が集う国だった筈。

・・・明治維新の志士たちの残してくれたもの
・・・・誇りとか勇気とか正義とか情熱とか・・・色褪せず、
現代の若者の心のなかにも、どこか脈づいている・・そう、信じている

日本人とは:決闘の文化

米国軍隊では侮辱されると階級賞を外し殴り合いをするそうです。仏国露国の貴族は弾を一つ込めたピストルで決闘をします。どちらかが死ぬか悪ければ二人共死ぬか又は二人共助かる場合もあります。日本の武士はどうでしょう。葉隠に、殴りあいの喧嘩をした家来を信玄が二人共磔にしたことが載っています。信玄曰く『武士なら何故刀を使わないのか』。武士の戦いはどちらかが止めを刺すまで戦います。止めを刺さない武士は卑怯者とされます。もし信玄の家来が刀を使って相手を殺せば磔にはならないでしょうが武士としての切腹が待っていた筈です。米国軍隊、仏国露国貴族、日本の武士、どこが一番モラルが高かったでしょうか。日本の武士>仏国露国貴族>米国軍隊の順です。これらの決闘の文化は法律ではありません全てその時代でも違法と思います。それでも彼等は決闘の文化を守りました。卑怯者に発言権を与えない為に。決闘の文化は掟が厳しい順から姿を消しました。そして現代日本。卑怯という概念さえ消えつつあります。文化を失った社会は何れ崩壊します。自らの文化に自信を持ち再生しない限り。

いつも勉強させてもらっています。無知で浅学な自分の視点なんですが、
白人文化は外見を重んじる文化で物質主義
日本文化は内面を重んじる文化で精神主義
だと思っています。

腹切りに関しても生存本能に自らの意思で逆らい、命を絶つ事が出来る。
人、特に日本人は意思の生き物だと思います。
名誉や責任取り、君主のためなど理由は様々だと思いますが、自分の命より大切なものがあり、その為に命を投げ出す事が出来る事、これこそが人と動物の境界線であり、人の一種の到達点ではないのかと思っております。
武士道精神や特攻隊の遺書の素晴らしさから、そう強く感じます。
しかし、戦後教育により粉々になってしまいました。
今の日本では、そういった精神教育こそが一番の急務だと思います。

はじめまして
私は学生時代に生態学を専攻していまして、お陰で動物学者と植物学者の先生方から色々と教えていただきました。
彼らがよく言っていた言葉の中に、動物学と植物学のbasic principles はパラレルであるというものがありました。
加えて、森林学の教授がおっしゃった言葉の要約ですが、
「人間は木々の青々とした葉や逞しい幹、力強く張った根に生命の力強さを投影させる傾向があるが、実際のところ木のbiomassのほとんどは死んだ細胞であり、生きている部分は割合的には僅かである。つまり木というものは巨大な死の固まりに僅かの命が乗っかっているorganismである。」というものがありました。
動植物学の先生方が指摘されてたようにbasic principlesが基本的に同じであるというのなら、森林学の教授が言われた巨大な死の固まりに乗っかった僅かな生き物を我々自身と置き換えることが出来ると思います。木にとって組織の死はそこで全ての終わりではありません。死んだ後も構造や組成が徐々に変化し生きている部分を支えます。一つの細胞の死も無駄ではありません。美しい花を咲かせたり、豊かな緑を高く風になびかせることが出来るのも、種から始まった時から積み上げられてきた生と死があればこそだと思います。
こういった視点から見ましても、私はブログ主さんの意見を支持します。

欧米の人たちは熱心なキリスト教信者だといいますが
その言動はとても聖書の教えとはかけ離れたものです
なぜその矛盾が問題にならないのか是非聞いて見たいものです

良く生きることは良く死ぬこと

管理人さん、すごいブログになりましたね。
エントリー+コメントのすごさにあっけにとられてます(笑)。
ひたすら勉強させていただいております。

吉田拓郎の歌に「今日より明日のほうがより死すべき時」というフレーズがありました。そうやって一日一日を生きていた。自分に与えられた時を大切にしなさいという教えなのかもしれませんね。

現代より死を身近に体験してきた昔の日本人にとって、「何のために生まれてきたのか」の答え出し方のひとつが「何のために死ぬのか」だったと思います。

大多数の一般民衆は種を「つなぐ」のが役目。
種は遥かな時を超えることによって高みを目指す。
それをサポートする遊撃隊(武士など)は時として、命を賭してその活動を保護する。

ひとり一人の人生がまさに手作りだった時代。
全文否定形の詩にも意味を見出す日本人にとって、死はものすごく積極的な自己完結だったのではないでしょうか。

はじめまて。いつも勉強させて頂いています。

生命は生と死で成り立っています。死を軽んじる事は、生を軽んじる事です。逆もまた、然り。よりよく生きなかった人間が、死の瞬間だけ美しい事はあり得ませんし、いざと言う時に生に恋々とする人間は晩節を汚し、その一瞬のみによって一生涯を判断されてしまいます。
また、日本人は死を重んじるが為、誰かが自裁した場合、それ以上の追求をしない風習がある様に思われます。切腹は自身の名誉のみならず、一門を守る為の手段でもあったのではないでしょうか。規模の違いこそあれ、一人罪を背負う姿勢は、自身が磔になることで、全人類の罪を背負ったキリストに通じる物があるのだとすれば、西洋人にも分かり易いのかも知れません。
「いかに生きるべきかを知りたくばローマに行け。いかに死ぬべきかを知りたくば日本に行け」と言う格言を耳にした事が有ります。そして、日本人は東西文明の結合に成功した唯一の民族です。精神的に日本人である事をやめてしまった人々は死を軽んじるが故に生を汚します。日本人としての精神を保ち、列島国家、海洋民族としての先進性を持つ者だけが、「いかに生き、いかに死ぬべきか」を知り得るのではないか、と私は考えています。
死から目を背ける者は、生に冒涜を与える者です。死後の世界を省みない人間は視野狭窄なエゴイストです。私はそうした人間を信用しません。
以上、乱文失礼致しました。

葉隠武士道

佐賀県、鍋島の葉隠武士道には、「武士道とは死することと見つけたり」との文言があったと思います。これは生死とは一瞬の出来事であり、その間の人生を世のための忠孝に捧げ、真剣に誇り高く生き、恥の人生など過ごすべきではないとの戒めであったのでしょう。

切腹とは、このような戒めにそむくような恥ずべき行為を行ったり、自分の世のためへの忠孝が終わり、だらだらとした怠惰な人生に終止符を自ら打つものであったのでしょう。

このような武士道が元来の日本文化・伝統に血脈として流れていたものです。明治維新以来、日本は西洋の良いところをうまく日本化し取り入れ、害のあるものは捨て去る知恵を持っていました。

しかし大東亜戦争の敗北により、GHQの情報操作により、かなりの日本古来の伝統・文化、社会価値観などが破壊、あるいは歪められ今日の日本社会の苦悩が生じているのではないかと思います。

西洋、大陸の汚れた利己主義の蔓延により失われていく日本人の精神と心。こんな悲しいことはありません。遅すぎないうちに、日本の家族制度、教育、社会価値観を元来の日本に戻すべきだと思います。それにはまず教育勅語。これは立派な日本人への教育です。

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腹について

こんばんわ。最近このサイトについて知り、初めての書き込みです。
ハラキリについてですが、日本人は元々、心や命が腹にあると
考えていたというのも、切腹について考慮してみてはどうかと思いました。
「腹が太い=心が広い」「腹が黒い=心が邪悪」「腹に据えかねる=我慢できない」
といったように、昔の日本人は、腹に心があると考えていました。
腹を切るというのは、自分の心をさらけ出すという意味があったのでは無いでしょうか。
外国では、心臓や脳が心と考えていると思いますが、
その観点から言えば腹を切るのは残酷な行為に見えるでしょう。
その違いも、ハラキリを理解する障害になっていると思います。

>>お釈迦様の答え。

>>お釈迦様の答え。
>>お釈迦様は弟子達の質問に色々答えているが、二つのことは答えなかった。一つは人間は死んだらどうなるか?もう一つは宇宙に果てはあるか?

釈尊の真意は、質問した人に対して、そんなことを聞く前に、自分の家の状況をみたらどうか?
奥さんや子供が泣いているではないか。あの世があると信じようと信じまいと、今の状況があの世での、あなたの境遇なのです。
今の状況が地獄なら、あの世へ行っても地獄であり、今の生き方が天国なら、あの世へ行っても天国で暮らせる。
宇宙の果てが有るか無いかなどと、理解できないことを考える暇があるなら、
奥さんと和解してきなさいと言ったのである。
釈尊は、抽象的な考えをできる人ではあったが、一般庶民はまず自分の生活を大切にしなさいと教える人であった。
ちなみに、釈尊は宇宙の誕生と、宇宙の果てがどのようになっていたか、悟っていました。
そこが、イエスキリストより悟りが高いと言われている理由です。


>弥生さん
そうかもしれませんね。
新渡戸稲造も『武士道』で
「腹部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰に由来する」
としているみたいですし、現代でも腸は「第二の脳」と言う人もいますしねw。
身の潔白を示したりする示威行為だったのが、様式が確立し、武士の潔い死に方になったのかもしれませんね。

切腹は死生感の問題より、どちらかというと社会のシステムでしかないんじゃないの。

外国から見れば訳のわからない不条理な事かもしれないが、日本社会の内部では合理的なんだよ。

命より大切なものがある、というポイントは人生において最第一の視点だと大いに共感しました。
少し以前の日本と、今の世の中の大きな違いは「御身お大切」が恥ずかしげも無く世間にまかり通っていることだと感じています。わが身が第一となればこそ、援助交際がなぜ悪いか、人を殺してはなぜいけないのか、など馬鹿げた考えにまともに答えきれず惑う大人ができる。

小生アメリカに住んで三十年になりますが、愚妻はもとカソリックのアメリカ人、今は仏教徒です。最前英語では仏教の深みはわからないというスレがありましたが、その点についてはおおいに異論があります、が、それは措いて。

アメリカ人の人生論的視点は、原則からの演繹にあり、それは大変真面目な姿勢であると思います。日本人は悪ずれにすぎる、或いは甘えがすぎる。しかし、神道を消化しかつ道教を裏に含んだ日本仏教が、不知不識のうちに世間のバックボーンになっている日本は実はとても恵まれています。
たとえば産地直送の新鮮な食材で「人生」を調理できるシェフと、缶詰の素材を煮たり焼いたりソースを工夫したりの苦闘を強いられる西洋の人たちと、そのスタートラインにおいて、日本人は大きなアドバンテージをもらっているのです。

小生は仏教に深く帰依していますが、このところ日本人に一神教を甘く見る傾向が出てきたのは甚だよろしくないとも思います。クールジャパンといわれて、安易にその源泉としての仏教というものをお神輿にしていては、ひいきの引き倒し。仏教という素材がいいからと怠けていては、一神教の毛唐にしてやられます。アメリカ人は原則(プリンシパル)に対して驚くほど真剣であるということを常に覚えておいたほうがいいです。

世直しの処方ということになると、唐突かつ迂遠と聞こえるでしょうが、正しい日本語を復活させるのが王道であろうと思います。孔子の「名を糾す」ということでしょうか。

命よりも大事なモノ考

 日本をカミとヒトが共存する処と捉えて居たのなら、ヒトは自分を何に拠って評価したら善いのだろうか、と考えると、それは「誇り」と言う事になると思います、左翼が日本は「恥」の文化と言いますが、その裏返しは「誇り」の文化です。

 話題になっている腹切りは、有る意味合理的な処刑方法です、武家では子供に作法を教えるのが親の役目だったでしょう、切腹が決まると介錯人と呼ばれる首を落とす役目の人が決められます、戦場などで腹を切る場合も合ったようですが、この場合必ず介錯人が居る情況ばかりではないので、その際の作法も決められていました、介錯人が居ない場合の腹切りはカナリ苦しい死に方ですが、腹切りに拘るのは、武士であることの証明だったからです。

 介錯人が首を落とすタイミングは3回あると云われています、先ず、着席して、三宝に載せた刀を取りに頭を前に出した時、衣服を開き腹を出して、刀を入れる場所を揉みますが、その部分を看る為に頭を前に出した時、そして、三宝を腰の下に敷いて、イザ腹に刀を入れる瞬間の3つです。

 斯うして書くと、「ナンダ形式だけなのか」と思われるかも知れませんが、勿論、本人の年齢・器量・気力を看ての話で、切腹を申しつけられる人は大体5歳~70歳迄、その理由も様々ですから、ドゥ考えても、本人の気力だけでは無理な場合があったと言うことでしょう、黙っていると、3つ目のチャンスで首を落とされてしまう、ダカラ「武士らしく腹を見事切ってからにして下さい」と事前に介錯人に申し入れを行わねばならなかったらしい。

 死ぬよりも大切なことがある、とは、誇りの事を云っているのは間違いない、それは逆に、その誇りを評価してくれる社会で育ち、その社会に住んでいるからで、腹を切ろうが、爆弾を抱いて敵陣に飛び込もうが、生き残った方が尊いと言う価値観の社会なら、誰もそんな真似はしないでしょう、誇りを称揚する社会なら、「金の為に生きても金しか残らないが、誇りの為に死ねば名が残る」と云う考えが、当たり前になる。

 戦陣訓に云う「生きて虜囚の辱めを受けては成らじ」は、嘗ての日中戦争で、シナ軍の日本兵捕虜に対する残虐な仕打ちで悶死した様を聞かされた元勲山県有朋が、「最後の最後まで敢闘精神を棄てては成らない」と云う陸軍の教えに背いても、「拷問で生き恥を晒すくらいなら、捕まった時点で死んでも良い」と云った事を、英米軍の正体がシナ軍と然程変わらない事を知っていた東条英機が焼き直して云ったとの事。

 これも、「誇りが、生への渇望に先んじるべきモノ」と言う考えに経ったモノだと言えるでしょう、そう考えると、樺太・サイパン・沖縄の住民、特に若い女性の自決は説明が着きます。

 日本は嘗て、誇りを称揚する社会だったのです。

こんにちは

切腹は北野武の『Brother』でも取り上げられてますね。

この映画、アメリカのギャングは裏切り行為をすると、逃げても追われ、殺されてしまうのに対して、
日本のヤクザは単に裏切り者と疑われただけで切腹して自らの潔白を証明して見せています。

北野武は『日本人に失われつつある武士道精神は案外ヤクザの世界に残ってる』と言いたかったのかな?と勝手に解釈してますが、いずれにせよギャング映画を使って日本人の死生観を表現してるとこは秀逸だと思います。

また、日本人にとっては『疑われてる』というだけで恥、すなわち名誉を汚されていることになります。

『武士に二言はない。』と言えば信用してもらえますし、二言があれば切腹してしまいますから。

欧米起源の監査などは、前提に経営者・従業員を疑ってかかる発想をもっていますが、日本で監査があまり発達していないのも疑われること自体に不慣れだからでもあると思います。

日本人は疑われるだけで不名誉。

欧米人は疑われるの良いのだけれども、実際に嘘をつくのは最大の不名誉。(欧米で『嘘つき』は最大の侮辱ですよね)

そして中国人・韓国人は疑わるのも、実際に嘘をつくのも不名誉ではない。(と、このブログを読んで学びましたwww)

You and I

少しポイントが外れますが、
①20年ほど前のテレビ番組で、海外駐在員達の討論会がありました(NHK)。ある人が日本とアメリカの違いはと問われ、それはYouという言葉の有無だと答えました。(日本人のYOUは曖昧、主語に必要ない)
Youが確立するにはIが確立している。この人生は私個人のもの=for my life。

②老人の人生に対し、日本人は「枯れる」という概念を持っています。英語でこの場合の「枯れる」は何と言うのでしょう。恐らく無いかもしれません。米国人は90歳になっても派手な衣装を好み、パラシュートで降下して、意気軒昂を示す人々です。

そうした観点から、切腹について、(あるいは特攻隊についても)、その意味を共有する土台が無いのではないか、ふとそんな思いを持ちました。なぜなら、①②は無私の概念を語る話です。

ちょっと驚いています。

ご意見を拝見させていただいて、大多数の皆さんが宗教とはなんであるかを分かっていない(気づいていない)ことにとても驚いています。

そんなアンケートをとったことが無いので、ある程度はみんな気付いているんだろうなと勝手に思っていました。

宗教が必要のない人間はこの世に一人もいません。

そして人間の苦痛(恐怖)は1種類しか存在しません。

宗教とはただ一点=「有限性の否定」に他なりません。

まだ知らなくてもいい年頃の人もいると思うので、ここまで呼んでピンとこない人はどうか飛ばして次のコメントを読んでください。

何故人間が他の動物と違って宗教が必要なのか。

私は自分の飼っている2匹の猫を観て思いました。
2年ほど前、片方の1匹が死にました。
もう1匹はそれをみてとても怖がっているように見えました。
私は自分の宗教観から「あれ、猫も死が理解出来るのか?」と驚いていましたが、それはあくまで他人(猫)の死であって、自分の死ではないのです。そう、人間以外の動物は「寿命」を理解出来ていません。他人(猫)の死を観て、「怖いけど、まさか自分にそれが降り掛かるとは理解出来ない」「あいつは運が悪かった」とおもっているのでしょうか。

しかし地球上の生物の中で、文字と言葉を持ち記録を取れるようになった人間だけが、過去の経験から「有限性」を悟ってしまうのです。

有限性とは貧しい人にも、強大な国の王にも等しく襲う苦しみです。
今から2500年以上前、ゴータマ・シッダルタ(釈迦)はこの苦しみからすべての人々を救う方法を探し、菩提樹の木の下である精神論を見いだし、その考えはその後の人類の苦しみを救いました。(ものすごく端折ってますね。申し訳ありません。)

ここからははっきり書きます。

人間は死にます。

その恐怖は、死後「無」になることを恐れる故に感じる絶望です。

私は度重なる親族の両親の死を見届けるうちに、信仰心を強く欲し、必要としました。

しかし私はおそらく死ぬまで幸せです。

釈迦が瞑想の中でブラフマンに教えられ悟りを開いた後、人々に(最初に説法を聞いたのは鹿ですね。東大寺では大事にされてますよね。)説いたのは、人間(動物)は死ぬと魂が一つにまとまり、やがて違う生命に宿るためまた分散するという真理(真如)でした。
仏教では六道(六道)を巡ると言われます。そしていつか「極楽浄土」にたどり着き、永遠の極楽を得るのです。

つまり、死ぬと違う生命に生まれ変りを繰り返し、いつか永遠を得るという、「有限性の否定」が宗教の核心なのです。

ここで私は、キリスト教やイスラーム教と、仏教や神道をやたらと比較し優劣を付けることに意味は無いと言いたいです。

人間の「有限性を否定」する概念である仏教の「極楽浄土」は、キリスト教や、イスラーム教でいう「天国」です。いずれも人々を苦しみから救う「宗教」であることにかわりはありません。
ちゃんと理解も出来るはずです。

日本人は無宗教。

それは当然違います。

世界で最も信仰心が強く、無意識のレベルまで達した民族です。
海外では学校で宗教を教えますが、ここの方が言う通り、日本人には生まれながらにして仏教と神道の精神が根付いているので、学校で教える必要はありません。

まだ信じられない人は他人や自分にこう聞いてください。

「あなたは天国を信じますか?輪廻転生を信じますか?」
どちらも仏教の核心の部分です。

これであれば過去に何度かアンケートがとられていますよね。

まさかとは思いますが勘違いが無いように言っておきますが、私は新興宗教など信じていません。
私が求めるのは自分や他人が「その日」まで笑って生活出来る精神を養うこと。
その時にはうろたえずに「向こうで待ってるよ」といって笑って別れられることです。
新興宗教の見分け方は「現世利益」の追求が大きいこと、単純にお金が掛かることでしょうかね。
先祖を祭るために私も幾らかのお金を払いますが、基本的に信じることにはお金は掛かりません。

さっき「真如(しんにょ)」と書きましたが、この真理の世界「如」から「来」た仏を「如来(にょらい)」といいます。
5世紀以降の仏教はこの如来を宇宙の中心ととらえ、大日如来を頂点に二つの曼荼羅の世界を想像した密教の世界がありますが、この密教は日本に世界に二つとない壮大な文化を1500年の歳月をかけて形成しました。
これらの世界で唯一無二の美術的な美しさと、源流である教えをしっかり結びつけて京都などの古都を巡るのが私の趣味です。

あ、ここまで読んで私がいい年のおじいさんだと思った方、申し訳ありません。
私はまだ33歳です(笑)

皆さん、ここの方、お体に気をつけて良い衆生(しゅじょう)をおくってください。


神道についてちょっとだけ追記させてください。

ここにコメントを寄せられる方は神道について、私などよりよっぽど詳しく、いろいろな角度から勉強されている方が多いなと驚いています。

わたくし仏教者ではありますが、日本人ですから神道に対する「祭り」を忘れたこともありません。

世界でも二つの宗教がここまで深く共存している国も珍しいですね。

まさに神仏習合。

過去には廃仏稀釈などの争いも無くはないですが、今も尚その融合文化は盤石たるものがあります。

それは、奇跡的なまでの役割分担が可能だったからなのかもしれません。

お葬式や大晦日など、人や時の「終わり」を祈る仏教。

生命の誕生を意味する結婚や、初詣など、人や時の「始まり」を祭る神道。

来世の幸せを祈る仏教。

現世の五穀豊穣、国家安寧を祭る神道。

美しいまでの役割分担、神仏習合が、日本人の豊かな人間性を形成していることは想像出来ます。

伊勢神宮の式年遷宮が近づいてきました。
20年に一度、1300年以上耐えること無く、変わらず続くお祭りや、今だ電気も使わず炎の明かりの下で天皇陛下や皇室が滞り無く行う神事には、仏教とはまた違う「生命の連続」を祈る精神を感じます。

人が次の世代に継いで行くことの尊さが胸を打ちます。

【余談】
嫌な話があります。笑い話に近いです。

「経済(お金)」も宗教だという人がいました。

何にでも交換出来る貨幣のあまりにも大きな「万能性」が、ついには「地獄の沙汰も金次第」という言葉を生み出してしまいました。

六道の一つ「地獄」もまた「有限性の否定」ですから「救い」なのですが、したたかな人間は一生懸命経済活動に励めば、地獄ですらも万能なお金で幸せが手に入ると信じてしまうのです。

わたしは信じたくはありませんが、皆さんはどう思いますか?

精神論の問題だろうか

確かに今の日本人は一言で言えば「無責任」なのかもしれませんね。
国防義務を背負わず民主主義を叫び、守られた国の中で世界平和を叫ぶ。
しかしだからと言って現代の日本を全て批判する気にはならない。
腹切だって日本人皆がしてたわけじゃない。日本人という括りがそんなに高尚なものではない。
一部優れた人々の行いを取り上げて「日本人はこうあるべきだ!」と言うのは
戦争・紛争・飢餓・病が起こっている傍らで平和を無責任に口にするのとそう変わらない気がするのです。

難しいテーマです

ブログ主さんが問われるテーマはいつも高尚で難しく、浅学な私にとってはとても語れない内容です。今日は秋分の日、祭日でした。朝、国旗を出し、午前中は地元の小さな湖のほとりで開催された「音楽フェスタ」へ、家族で行きました。小学生や中学生の演奏を聴きながら、このブログのテーマについて考えていました。多くのコメンターの方が、死生観や宗教観について書かれています。私には難しいことは書けません。若い頃には、哲学や宗教的な本もかじったこともありました。難しくてわたしのような人間には理解できないこと多かったと思います。読めば感銘します。しかし、感銘し、評論家になるだけでは仕方がないと、いつしかそのような本とは遠くなりました。多くの宗教は不幸から生まれています。幸せな中から生まれた宗教はありません。どんな宗教も人間の幸せを祈っています。目的は一緒でも手段が異なっています。宗教の不幸は排他的なことです。じぶんが信じる宗教以外は許しません。妥協がないのです。そんな宗教は人類を不幸にするだけです。その点、日本の神道や仏教は排他的ではありません。日本に生まれて良かったと思っています。仏教の世界では「前世」「現世」「来世」があります。勝手な解釈ですが「前世=ご先祖」「現世=私」「来世=子孫」と考えています。死んで「神仏」になる考えはわたしにはわかりません。生きているときに「神仏」になる努力をしたいと考えています。私は、毎日死んでいます。ただ、目覚めるだけです。目覚めないときが本当の死です。それを迎える覚悟だけが必要です。

日本人の生死観!

核家族化も進み死生観とか死について考える事が少なくなって来ている。
お彼岸の今日は子供達にも死について教えさせる良い機会ですね。


何度見ても涙が止まらない動画があります。
日本男児、ここにあり!

切腹とは違いますが、どうぞ宜しくお願いいたします。

http://jp.youtube.com/watch?v=2nyFYPzaSeY&feature=related

少し前のNeverさんの書き込みについて二三コメントさせてください。
仏教について誤解なさっています。
教義論争をするつもりはありません。 が、「仏教」と呼んだ場合に種々宗要に違いはあっても、仏教共通の最大公約数はありますので、その範囲で申し上げるものです。


>釈迦が瞑想の中でブラフマンに教えられ悟りを開いた後、人々に説いた>のは、人間(動物)は死ぬと魂が一つにまとまり、やがて違う生命に宿る>ためまた分散するという真理(真如)でした。

ブラフマンやアートマンを想定するのが迷いの根本だというのが仏教です。
三つの仏教のマルクメールの一つは「無我」といって、魂のような自我に囚われることが迷いの根本だというのが仏教です。
ですから、菩提樹の下でお釈迦さんが悟ったのは、この世界は事々物々がそれぞれに縁ってたつ因縁の世界であるとの法であり、強いて教えてくれた存在を言えば、法そのものです。
死ぬと魂がまとまり云々は、自我の妄執であり、ブラフマンとアートマンの合一がゴールであるような考えは、仏教と最も遠い「迷い」です。

ですので、

>仏教の「極楽浄土」は、キリスト教や、イスラーム教でいう「天国」です。

というのも仏教では全否定します。死後の天国は仏教では全く教えません。
どなたかがここでレスしたように、死後についてはノーコメントがお釈迦さんの教えです。
「極楽浄土」と言っても、無我に則ったことで、己の悟りのなかにあるもの、キリスト教イスラム教の天国とは径庭甚だしいものです。


>「あなたは天国を信じますか?輪廻転生を信じますか?」
>どちらも仏教の核心の部分です。

同様に輪廻転生は仏教の核心ではありえません。
本生譚が十二部経の中にありますので、輪廻転生が仏教と思う人も多いのですが、繰り返しますが自我を離れてこの世間を貫く因果・因縁の実相を「見る」ことが仏教のスタートでありゴールです。

仏教に関心を持っておられることに敬意を表しますが、仏教をそのように甘く見ずに、真剣に深く求めていかれることを願います。

キリスト教徒のキリスト知らず・・・


>>死を自覚することによって逆に生命とは何かを認識できる、

これには激しく同意いたします!!
私も留学先で管理人さんとよく似た質問をされたことがあります。
「何故日本人は死に急ぐのか?何故もっと命を大切にしないのか?」という質問だったと思います。(別に大切に思っているんですけどね)

私も管理人さんと同じで「日本人は『生』よりも、大切なモノが存在する事を知っているからだと思います」と答えたと思います。すると彼らは「生きること以上に大切なことは無い、命を無駄にする日本人は野蛮だと思う」とはっきり言われました。

そこで私は「それでは、あなたはキリストを否定なさるのですか?」と言うと、彼らはキョトンとして「何を言うのか?」と言う感じでした。私は「イエス・キリストは、『罪ある多くの衆生』を救う為に、自分の尊い命を犠牲になさいましたよね?キリストも『生きる』と言うことだけを考えていたのなら、決して私達衆生の為に死ななかったと思います」と言うと、彼らは絶句していました。

根本的に、彼ら白人は、キリストの教えと言うものをキチンと理解しているのでしょうか?もう一回バイブル(聖書)を読み直すべきだと思いました。

武士道が、江戸の泰平の世に成立したものである事に、注意が必要です。
武士道は、あくまでも戦の無くなった泰平の世において、武士が武士らしく生きるためにはどうしたらいいのか?という、理念先行の理想論なのです。

武士道は、食うか食われるかの戦国の乱世の中から、生まれたものではないのです。
乱世では、生き残るためには、裏切り・寝返り・暗殺などは当たり前、信・義・忠?なにそれ?です。真田昌幸は表裏卑怯の者と評されましたし、隣国を援助した国はその隣国に滅ぼされます(マキャベリ?)。

鬼畜米英中韓による日本人捕虜や居留民への拷問・虐殺、長崎・広島への原爆投下・東京大空襲などの非戦闘員の無差別大量虐殺は国際法違反ですし、ソ連の対日参戦は日ソ不可侵条約違反ですが、それがグローバルスタンダードだったのです。日本のみが糞真面目に国際法や条約を遵守して、敗戦、現在も植民地の奴隷です。

信・義・忠などの精神は、戦争では弱みになりますが、逆に商工業においてこそ強みになります。戦後日本の産業発展には、納期を守るとか、品質管理とかの真面目さが、大変なプラスに働きました。

これからの時代はどうでしょうか?世界の人口は現在67億人でなお増加中です。中国など新興国の人々がマイカーをもち、牛肉を食べるようになります。食料やエネルギーの争奪が激しくなります。また、地球上で住環境に適した土地は限られており、温暖で水資源の豊かな日本の土地は狙われます。これからまた、乱世がくるのではないでしょうか。早く武士道を捨てないと、真っ先に民族ごと死滅しますよ。しかし、日本人はこのまま信・義・忠・武士道を守って、滅亡しそうですね。。。

はじめまして。こちらのブログを読み、感動したのでコメントさせていただきます。
私はまだ浅学ですが、武士道における切腹について少し。

一言でいうと、切腹は武士の作法でした。武士ははっきり言って生産性がありません。世は治まり戦もなく、しかし武士人口は多いためほとんどがその日暮らしでした。そこで武士に求められたのが、農工商その他の民の指標となることです。
まず「自らを律すること」が第一でした。「武士は食わねど高楊枝」という諺がありますが、あれは決して見栄を張っていただけではありません。(一部は腐敗していたとはいえ)武士には、民の規範であるという矜持がありました。
誇り高く生きていた武士にとって、たとえ過失であっても罪を犯すことは「恥」でした。切腹の根底には「他人に依らず、自分の最期は自分で果たす」という考えがあったのです。(よって切腹は武士の「名誉」ですが、斬首は「恥」でした)
当然介錯人もいて、刃が刺さる前に首を落とすことが多かったのですが、要は「自分で自分を殺す覚悟」が大切だったのです。つまり、「切腹」は究極の自己責任の果たし方とも言えます。

当時、日本の武士を知ったイギリス人が「日本に警察はいらない。なぜなら、日本人は自分で自分を取り締まるからだ」と言っていたそうです。(これは切腹でなく自宅謹慎のことだった気がしますが)
こう考えてみると、日本人は自分には厳しい人種なのかもしれません。

長々と失礼しました。

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