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日本語の力      9月19日(金)


今日も日本人について考えてみたいと思います。

日本人にあなたの信仰している宗教は と聞きますと、80%は無宗教
と答えるそうです。

私も無宗教です、ところが15年前に国際連合工業開発機関の誘導
でスリランカ(セイロン)でビジネスを始めた時、スリランカの高僧
バンニラ・アーナンダ大僧正とご縁が出来、何回もお会いしている内
に 日本人は生まれながら仏教徒であるということを発見をしました。

アーナンダ僧正は私に仏教を強要したわけではありませんが、
考え方が全く同じだと気がついたのです。

以前から経験上 外人と日本人の精神は根底から違うという考えを
持っていましたが、アーナンダ氏と 世間話から世界の歴史、世界情勢
宗教観、人生観、いろいろと会話していますと、あまりにも共感
出来る部分が多すぎて、時間のたつのを忘れてしまうほどでした。

その時 ハタと気がついたのです、日本人の血には知らぬ間に
脈々と仏教の教えが流れている、仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代、
それ以降、我々は千四百年の間、仏教の理念を基本にして
生きてきたのです。

改めて仏教信者にならなくても、日本人は仏教徒なのだと気が
つきました。
このような事を言いますとキリスト教徒や他の宗教を信じている
方に怒られそうですが、どの様な宗教を信じようとも、日本人の
根底には、仏教の教えが流れています。

日本人の精神から千数百年間の歴史を消し去ることは出来ません。

アーナンダ大僧正は、フランスのソルボンヌ大学を出てスリランカに
戻り、再び米国、台湾で、研究を終え、そして日本の文部省より
特別奨学金を受給して大阪大学を卒業すると次に京都大学に進み
日本の大乗仏教と小乗仏教について研究を行った。

幸いにもアーナンダ僧正は日本語が流暢に喋れます、お陰で日本精神
の深いところまで会話が出来ます。

アーナンダ僧正が突然私にお互い英語で会話しませんか、と
言い出したので、理解が出来なくて何故と聞き返しました。

僧正は、「英語で会話すると いま貴方と会話しているような深い所まで
入っていけません、英語には深い言葉がありません,白か黒かだけで
あまりにも単純すぎます。その点日本語は、広くて、細かくて、大変
深いです。日本語の凄さを知ってほしいから 一度英語で会話しましょう、
直ぐに、分かります」と言いました。

スリランカの公用語は英語です、僧正の日常語はシンハリ語と英語です。
僧正は日本に留学して日本語を知り、その膨大な仏教資料に目を通して
初めて仏教の真髄に触れました。

僧正が言うには「私は日本に来るまで、子供の頭でした、大学の図書館
で仏教資料だけでは無しに,共産主義から資本主義のイデオロギーまで
目を通しました、日本語さえ知っていれば世界の国の歴史から思想まで
全て分かります、インド、中国、ヨーロッパの聖典に目を通しました。
日本は資料の宝庫です。」

私は複雑な気持ちで僧正の話を聞いていました、日本人でありながら
日本語の良さも分からず、図書館すら行ったことが無い自分が
恥ずかしくなりました。

日本も遣隋使や遣唐使が持って帰ってきた膨大な仏教資料と漢籍を
勉強して立派なお坊さんを作り、日本精神を形作っていったと
思われます。

あの頃のお坊様もアーナンダ僧正と同じように死に物狂いで勉強し、
その精神と歴史の継続が我々日本人を育てました。

アーナンダ僧正は聖徳太子のことまで知っていました.僧正が言うには
「1400年前に既に憲法を持っているような国は日本だけです。日本は
最近 近代化したのではなく、1400年前から既に先進国です」と
言われました。

聖徳太子の憲法17条は仏教を国是にしました。
第二条であつく三宝を敬え、三宝とは仏と法と僧です。
仏教はあらゆる生き物の最後のより所。全ての国の究極のより所です。

そして第一条は「和をもって貴しとなす」は現在も日本人の心の
支柱です。

日本語の素晴らしさを外人から教えられました。
第二次世界大戦で負けてしまってから欧米への劣等感がこびりついて、
日本人は誇りを無くしてしまいました。

同一言語、同一文化、同一人種の 長く継続された日本の歴史と精神に
自信を持ちましょう。我々日本人は先人が残してくれた言葉や文化を
もっと大切にしましょう。

大昔から中国や韓国では新王朝が誕生すると旧王朝がしたことを全否定
して 以前の資料を廃棄して、古い歴史が消滅してしまいます。
すなわち歴史が継続されず、歴史から学ぶことが出来ません。

その結果 中韓の人物はいつまでたっても成熟した大人になることが
出来ないのです、

日本国民は成熟した大人の国民なのです。但し政治家以外は!






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コメント

はじめまして

いつも楽しみに拝見しております。
豊富な経験から語られる内容に蒙を開かれる思いです。

がんばってください。

仏教というよりも

日本人の根底は神道というか、八百万の神々に表される「全ての物・事象に神様が宿る」という考え方だと思いますが、いかがでしょうか?
この考え方が他の宗教に寛容(すぎる)な日本人を形成してると思います。

日本の政治家は子供だったのですね。

福田首相(72歳)が、柔道の石井選手(21歳)におちょくられるのが
納得できます。

仏教は平和主義であり、宗教というより哲学

小生(東京在住)の娘が縁あって関西のお寺に嫁ぎました。
浄土真宗系で親鸞聖人の教えが基本です。
私もまったくの無宗教のような人生を送ってきましたが、娘の結婚を機会に仏教なるものを、図書館の書物で勉強(難しいこと理解できません)すると、お釈迦様(仏陀)の教えは、一神教のユダヤ、キリスト、イスラム教とまったく違った教えで(平和的なのかな)、異教徒を排斥する宗教と違う!
親鸞聖人は妻帯、肉食を実践し、その頃としては異端児だったと思います。妻帯しないのは、カトリック、仏教も浄土真宗以外は独身を通し(ホモがそこに生まれた?)た。明治以降 妻帯はほとんどの仏教で実践されたようだが。
あと 大乗仏教と小乗仏教(この言い方は大乗仏教のそれらしいが)の違いは、出家するのが小乗仏教(これが本当の仏陀の教え、チベットとかタイとか南の国が多いらしい)。大乗は中国経由で出家しなくてもいいらしい(いかにも中国的かな?)
聞きかじりなので、誤りがあったらごめんなさい!
要は仏教は非常に平和な宗教ですと言いたい!?

日本語はあいまいで難しい

日本語は印欧語族に属する言語よりも文法がはっきりしていないといわれます。
英語はitを使って主語の存在を貫徹しますが、日本語はそのようなことはなく、書き手によって大きな違いが出ます。当然、文章の完成度も書き手の実力が素直に反映されます。
同じ文章でも複数の意味にとれることがあるので、法令などを記述するには細心の注意が必要であり、相当に訓練された書き手でない限り法律を書くことは難しいでしょう。
ただ、そういう日本語の文法のあいまいさが多くの思想を日本文化へ吸収させる原動力になっているのかもしれません。

 私も、ぱとさんの言うように、日本人の根底にあるのは、仏教そのものというよりも、八百万の神々を信じている点にあると思います。
 つまり、山や海を畏れ、登る朝日、沈む夕日に感謝し、森の木々(材木になっても)や一寸の虫にも心があると信じているように、自然に対する謙虚な心が日本人の根底にあると思います。
 その点で仏教と親和性が良かったのでないでしょうか。
 また、絶対の神と人間との契約に根底を置くキリスト教が、わが国に根付かないのもそうしたことから理解できるように思います。

>日本人の
根底には、仏教の教えが流れています。

日本人ではなく、日本社会なのだと思います。
今 その日本社会が「無責任」に毒されているように思います。
10年後、アーナンダ僧正が、日本人と会話し、共感・共通の暖かみを感じる事ができるとは自信がもてない。
あと、2番目の方と同じく、仏教ではなく、神道だと思います。

今日も素晴らしいです。

私も宗教心は薄いですが、以前から外国人に対しては「仏教徒である。」と答えることにしています。外国人、特に西洋人に無宗教と言うと、「コミュニスト」か「悪魔」かと思われてしまいますから。

正確を期すならば、縄文的なアニミズムの上に仏教が乗っかっている、と言うことなのでしょうが、仏教徒と言って、殆ど差し支えないと思いますよ。

最後の一行には、「官僚」と「マスゴミ」、「御用学者」も加えてください(笑)。

卑怯者=シナ・朝鮮民族


>>日本語は、広くて、細かくて、大変深いです

そうですよね。
高校生の時留学先で、日本でいう「卑怯者」という英語の単語がわからなくって、先生に訊ねたことがあります。

・私:「狡賢くって、誠実な人を騙し、裏切り、己の利益の為には、平気で反則や法律違反もし、常に弱きを挫き、強きを助けるような人のことを“一まとめ”で何と言うのですか?」と尋ねると、←(一番手っ取り早い例としては、朝鮮やシナのような民族のことですが・・・)

・先生は「不誠実で、狡猾で、裏切り者で、自己中心的で、弱い人を苛めているような人を“一まとめにした単語?”さぁ??多分、英語には無いと思うわ・・・。一つづつじゃダメなの?」という返答が返ってきたのをよく覚えています。

その時私は、「英語ってもしかして底が浅い言語なのかもしれない?」と感じた事を、今日のこのトピックで思い出しました。でも、もしご存知の方がいらっしゃったら、是非教えて下さい。

確かにアーナンダ大僧正のおっしゃる通りに、英語で仏教の教えを説くには、限りなく単語が限られてくると思います。特に『煩悩』や『執着』という言葉は、キリスト教圏の人間には理解しづらいのでは?と思いました。例えば、仏教の教えでは、あまりに“家族愛”が過ぎると、それも執着になってしまうし、恋愛も“煩悩”の一つとしてとらえていますよね?

そして、人間が死に逝く時には、深く愛した家族も、社会的成功も、財産も全てこの世に残していかなければならないし、何も持ってあの世に行くことは出来ない。あの世に持って行けるものがあるとしたら、己の『罪業』だけなのですから。そういう説明は、キリスト教信者が多い白人たちには、『気落ち』するような教えに、聞こえるのではないでしょうか?そういう風に感じたことがありましたから・・・。

でも聞いた話では、あのカソリックの総本山イタリアでは、5万人の仏教徒がいるらしいです。なんでもカソリックの教えに矛盾を感じている若者が数多くいるらしいですね。フランスでも『日本の禅』を学びたい人がとても多いと聞きました。不思議ですね。『キリスト教の限界』を見たような思いです。

追記

#mQop/nM.様
仏教を勉強すると、蘇我氏(佛教)、物部氏(神道)の争いがどうしても
気になります。
小生も先住民系、蝦夷系なので 八百万の神、山、大木、海、神々しいもの全てが神様。よく わかります。
昔の渡来系、先住民系は水に流しましょう!
ネットで勉強しましたが、漢民族は今では存在しないで、戦争に勝った北方系民族がそれを名乗り、その他 大陸は欧も、トルコも、中近東も、インドも、中国も昔の民族ではない。 その点 日本は島国で渡来系の人もいるけど、自然に同化(シナ、ロシアの強制同化と違う)
台湾もガイドブックを見ると、98%漢民族と書いてあるが、本省人は平穂族との混血(日本人も東、南、北 の混血が今の日本だと思います)で気性が穏やか。外省人は60年前に台湾に逃げてきた、根っからの中国人(これも語弊がありますが)
独断と偏見でスミマセン!

日本はいま、立ち直らなくてはなりません。

>日本国民は成熟した大人の国民なのです。但し政治家以外は!

まさに、この一言に尽きます。戦後日本の教育がGHQに捻じ曲げられ、米国にとって都合の悪い日本の伝統、文化、宗教思想に関する、かなりの古文書が闇の中で焼却処分になったようです。

GHQはまた、日本人の自虐史観に結びつく、情報操作「真相箱」なるもので、自国では赤狩りまでしたのに、左翼思想を意図的に植え付け放置したものと考えられます。自由・平等など米国が言う台詞は、敵対国の混乱を引き起こし転覆、支配に利用されました。自国の利権のためには、ダブル、いや、トリプルスタンダードだって平気なんです。

イラク、アフガニスタンでも同じようなことをやっています。このようなことはほとんどの米国市民の話ではありません。米国と言う国家、そしてその大統領さえ動かし、世界の利権を漁り支配をする勢力が存在するようです。

ドイツも昔は八百万の神だったらしい

小生 ただの職人なので、正確なのかわかりませんが、ヨーロッパ諸国もキリスト教伝播前は八百万教(ドイツの教会には十字の脇に昔から神と信じていた模様が彫りこまれている?)だった? ケルト人もアングロサクソン人も親戚関係なのでそうだった??

日本人の潜在宗教観

日本人の基本は神道だとおもってます。 それといつも楽しみにして拝見させてもらってます。
がんばってくださいねw

神道は無視ですか?
日本の歴史の根幹である天皇とも非常に結び付きが強いのですが…
神社やそこから発生した行事も多く、私としては仏教こそが日本人の精神とされてしまうのは少し残念でした。

はじめまして。いつも興味深く拝読させて頂いています。
仏教徒と断定するのは狭義に思います。
日本人は神仏和合した日本独自の土着宗教を2千年近くも脈々と受け継いできたので、その一端を改めて認識したにすぎないのではありませんか?
これからも全世界の他宗教を純粋な好奇心のまま、玉石混合の資料を有難がりながら嬉々として寄せ集め、良いと思った部分だけを選び出し昇華吸収して成長していくことでしょう。
日本人のいう無宗教とは、何物にも染まりながら全てに染まらないという清水のような意識の現われだと思っています。もっとも浄化能力も限界がありますので、今は色々な方面で引き締めが必要なときだと思います。

日本人は生まれながらにして仏教というのは誤りでしょう。
基本は神道だと思いますが・・・
ともかく、がんばってください。

日本の大きな祭りは、五穀豊穣にために神をたたえるマツリゴトや霊を鎮めるマツリゴトに由来しています。極めつけは元旦の神社への参拝です。
日本全国では数千万人が神社に行きます。この様子を生中継で海外に放映すればよい。日本人は教義などの押し付けが嫌なだけです。
多くの日本人の神をたたえる行為は自発的行為であり、神道の根源です。

日本人の寛大さ

考えさせられる、私も前の人が言われていたように八百万の神がおられるこの日本は宗教に対して寛大な民族になったと思える。仏教が渡来したときはやはり古来からある神道と衝突したとある(えんのぎょうじゃ)あたりを読むとそういった記述あると思う、ちょっとあやふや。今思い出したように自然を守ろうとか言っているが、日本は昔から自然のものに対して畏怖の念をもっていた、鎮守の森を伐採するひとはほとんどいないだろう。これは別の見方をすれば自然(八百万の神)を守ろう、こういったものに逆らうと罰があたる、いきとしいけるものは全てが教師(これは仏教の教えだったかな)こういったものが日本人の宗教感になっているように思う。

いつも楽しく拝見させてもらってます。
やはり、何処かの首相が言っていた『天皇を中心とした神の国』であったし、
我々日本人は、心底に神道が根付いているのは逃れようがないでしょうね。
だから、あの発言自体は間違いではなかった。
ただ、政を担う者が公に言ってはならなかっただけ。
とにかく日本人はもっと誇りを持つべき!

本に書いてあったのですが、キリスト教の修道士と仏教の修行僧は霊的な実践するもの同士理解できるのだそうです。しかし、高位の方が神学を論争するとお互い理解できないそうです。
また、外国人からみて建物生活が変わっても日本人は変わっていないと書いてありました。

日本人は無宗教という人が多いと言いますが、無意識に神道、長い間かけて取り入れてきた仏教を、霊的な実践をしているのではないでしょうか?

人生を変えることもできる

これほど感情表現のできる言葉は少ないでしょう。
言葉によって憎しみも深まり、また理解しあうこともできる。
日本人語によって争うことが少なく、日本人は大人しい
などと言われるのでしょう。

言葉が足りずに理解しあえないということが、争いの原因にもなる。
日本人同士なら、特に日本語は大切にしたい。
相手と分かり合えるということは、とても幸福なことだから・・・。

難しいので、世界共通語にはなれないが、その精神は伝えられたらいい。

神道

 
  外来の、絶対神を祀る一神教と同じ考え方で、「宗教」「神」という言葉を捉えるために、日本人は無宗教だと感じてしまうのでしょう。
 しかし、「人知を超えた神聖な存在を敬う精神」として宗教を考えるのなら、日本人にとってそれは神道であることは間違いないと思います。
 神道が仏教をも受け入れ、共存できたのは、その共生の精神性のためですし、教義や聖典を持たない神道の補完的役割という意味もあったのだと思います。
 自然のあらゆるものに神性を見いだし畏敬の念を抱く姿勢、共生の精神、美を追い求める価値観、こういう民族的特性が日本の国力に繋がっているのではないでしょうか? 
 

書いてる人の世界観の狭さが露見しまくってる文章だな
私が思うに日本人の本質は、良いとこ取りの文化だと思っている
良いと思われる考え文化は取り入れ。さらに考え発展させていく力を持ってるのが日本人
どちらかと言うと仏教は取り込まれた宗教と私は考える
取り込んだからにはそれによって形成された考えもあるので言ってることがすべてが間違いとは言わないが
「仏教の理念を基本にして生きてきたのです。」
と言われてしまうとそれはただの勉強不足だろとしか言えなくなる

この記事にも
「外人と日本人の精神は根底から違うという考えを持っていましたが」
と書いてるのに仏教率90%のチベットなどと日本は一緒に感じるのか?と突っ込みたくなるよ

さきほども書いたようにすべてが間違いと言うわけではないので、せめて日本に多く浸透してる神道・仏教・キリスト教をある程度と欲を言えば仏教の宗派も勉強してからもう一度記事を書いてほしい。
ていうかその位勉強してからではないといくら仏教のすばらしい教えに感銘をうけたとしても「仏教の理念を基本」なんて言葉を使ってほしくない

フェアウエル・ノート

日本人の精神的基盤を皇室→神道とするかたのご意見もよくわかります。私自身、武力では絶対に犯せない皇室の権威と伝統を誇りに思い、世界にただひとつ守られた「人類の歴史」のお膝元に生まれてきた幸運に感謝しています。

しかし、他国のひとにわかりやすく自慢(?)できる価値観は何かと考えたとき、おそらく私も仏教精神を先にあげると思います。理由は、他国の宗教的規範との違いが仏教のほうが明確だから。高度な哲学として理解されやすいから。

以前勤めていた外資系企業を退社するにあたり、世界中にある支店の同僚たちに挨拶メールを出しました。

日本の仏教は人々に教えます。
時間とは物の変化の量だと。
激しく変化するものには濃い時間が流れ、
緩やかに変化するものにはゆっくり流れる。
今一度さらなる変化を楽しむのも悪くないと思います。
自分がこの世で暮らした痕跡を明確にするために。

自分で言うのもなんですが、アメリカやヨーロッパ各地の同僚からはちょっと賞賛されました(笑)。彼らにしてみれば、日本人はただのサラリーマンでさえそんな文章が書けるのか(そんな哲学を「軸」に持っているのか)という一種のあこがれがあったと思います。

アメリカ人など、ときどき自分の名前を漢字に当てて名刺の裏側に印刷していたりしますが、あれなんか、日本文化に代表される深いもの・繊細なものへの限りない憧れを表しているのではないでしょうか。
あるアメリカ人がいいましたよ。「俺も漢字でサインしたい。漢字はカッコイイ。」

上の文章を発信したとき、上海オフィースの連中からは「それは日本の仏教ではなく中国の仏教だ」と突っ込みが入ったのはご愛嬌でした(笑)。

私説、日本の宗教考

 「神道と仏教のどちらが、日本人に深い影響を与えているか」と云う問いならば、人口が過少で階層化する必要が殆どなかった縄文前期から考えを起こすべきでしょう。

 日本の基層文化は、長江文明と重複している部分が明らかにあります、白蛇、太陽、そして鳥と言った、三苗の信仰や、水田耕作や漆工芸は、長江文明からの伝来です、それ以前の日本の文化は、翡翠や黒曜石と云った明らかに狩猟採集を主とする山岳民族ですから、約4200年前の地球全体を覆った寒冷期を原因に、世界各地で様々な変化が起こっています、先ず、メソポタミアやがインダス文明が歴史から消滅する程のダメージを受けています、原因は寒冷化による少雨、干ばつです、期を同じくして、北方の遊牧民が水を求めて南下した結果、長江文明が滅亡しています、圧迫を受けた民は、雲南省や台湾、朝鮮半島や日本列島に難を逃れます。

 此処で、日本に先住していた狩猟・採集・畑作を行う定住民をアソベ族と呼ぶのに対し、越と呼ばれた長江下流域から、海流に乗って移住してきた民をツボケ族と、ツガル外三郡誌の名称を流用させて頂きます。

 アソベ族とツボケ族は互いに定住域が異なります、アソベ族は山岳、ツボケ族は湿地帯の有る平地から海岸沿いと異なったから、利害の衝突は殆どなかったと思われましたが、三内丸山にあったアソベ族の大集落の滅亡原因となった、火山の大噴火時期が有って、ツボケ族が列島に辿り着いた時点で相当に消耗していたのですが、其処へ、岩木山の大噴火が起こり、アソベ族の大半が噴火による火砕流や土石流に巻き込まれて死亡、負傷し、勢力を激減させていたと考えられます。

 それでも、噴火の無かった地方ではアソベ族は生き延び、ツボケ族と混血して、鉱山開削や、冶金術を身につけて、砂金を中心とする黄金産出に成功、十三湊を中心とする大陸との交易で巨万の冨を築き、中央が云うに蝦夷として、東北一帯に大勢力を築きます、是が日高見の国です。

 白村江の水軍の総大将だった安倍比羅夫、安東水軍の安東氏、朝廷の弾圧に立った叛乱の将アテルイを討った坂上田村麻呂、源義家に滅ぼされた日ノ本将軍の安倍氏、源氏に随った清原氏、奥州金で独自の文化を築いた奥州藤原氏がその末裔でしょう。

 日本はこれら、大陸北辺からマンモスを追って渡ってきたオホーツク沿岸文化圏に属する先住民=シナの四族に云う北狄族を祖とするモノが秋津族となり、長江文明を築いた、水田耕作・漁労・海産・貿易民の東夷族に、火の扱いに長けた山岳畑作民南蛮族をプラスしたモノを祖とするモノが国津族、そして、新たに大陸の戦火に追われて列島に渡ってきた戦の民、天津族の三族の和する国であろうと、私は考えています。

 三族のウチ、天津族=海津(の)族=海人族は、東シナ海沿岸で交易、漁労、稲作を営む、同族同業の民族の総称ですが、鉄の精錬法を知る勢力が半島で鉄を産出に成功、精錬し、製品を作って大陸の王朝と交易して、半島~大陸間の地帯で繁栄を築いていました、彼等には彼等自身の争い毎を纏めるに、次第に大陸に倣って王制が根付き始め、背景に拠り有力な武力を持つモノが力を持つ事になりました。

 彼等自身も鉄の武器・農機具を持つ部族ですから、武力でも生産力でも列島の先住民に勝ち目はなかったワケでしたが、列島の複雑な地形が彼等をとことん追い詰める事を許さなかったし、天津族の仲間割れは深刻で、其処に付け入る隙が生じて戦いは泥沼・膠着化した。

 蔓延りだした厭戦ムードが、戦いの反省を支配層に強いて、支配勢力のみならず、既に配下となっている三族も含め、集めての大和を結ぶ事となった、その神に仕え、儀式を仕切り、神の幸わう声を伝える役目をするモノを共通の王としたワケです、是が祭祀王、スメラミコトの誕生だと思います。

 是が私の考える古代神道の成立迄ですが、人の和から発したモノですから、端から互いの異神に対する容認の存在が不可欠です、それが八百万の神と云う考えとなって、受容度が広く取る事が優先された、故に、教義で、道徳を住民に強制する事に主眼は措かれず、神に対する禁忌を中心にした儀式のみとなったのではないかと思うわけです、ですから、年々歳々に現れる収穫の善し悪しと言う結果のみが、民の願いに対する神の応えであり、民は、海洋民族の如く、折々の禁忌に気を付けるしか、自分達の願いを叶える術が無かったワケです。

 其処に、北伝の大乗仏教が入ってきましたが、大乗の「衆生を救う事を本願にする」と言う考えが、神道に云う和の必要性を説明するとして、衆生を救うと言う分かり易い具体的結果にも繋がって、広く受け容れられたと云うことでしょう、亦、仏は、人の覚醒が本来内在する仏性を顕現させたものであり、決して神を名乗るモノではない処に、神仏習合を許容した原因があると考えます。

 但し、物部氏の様に、収穫期に行われる和の祭祀に関わる役割を担うモノで、現世的な利益を得ていた勢力は当然反対しますが、大勢は既に、仏教を奉じる勢力にあり、為に、倭の五王を輩出した河内王朝は、丹波勢のオオド王に執って代わられる事になるワケです(継体帝)、その後、聖徳太子がそ蘇我氏と組んで大勢力であった物部氏を地方に追いやり、封じ込めて、時代を経て、聖武天皇の御代に仏教が最盛期を迎えるワケです。

 仏教は、その時点で本来の教えとは似てもにつかない教義に変化していましたし、トテモ同じ教えから出たとは思えない程の隔たりのある宗派に分かれたりしましたが、それ以後も、廃れることなく、大多数の農民層だけでなく、武士層にも遍く「信仰」されて近代に至っています、その間、日本のあらゆる階層で、仏教に云う、森羅万象悉皆仏性が、神道の平等、和の思想と結びついたのだと思うわけです。

 一方神道は、江戸末期になって、欧米列強の侵略と言う、未曾有の国難が迫っている事が発覚、様々な「神」が、日本各地で目を覚まします、黒住教、金光教、大本教、天理教など、後の新興宗教の元になった神道系宗教の教祖が現れたのもこの頃でした。

 確かに、戦前日本の大国への途上で、覇道を外国勢と競うしかない事を正当化するには、八紘一宇の理想を掲げた唯一神が必要でしたが、天皇陛下を現人神として仕舞ったのでは、神様を戦争に利用したと言う意味で、西洋神と同じと言う誹りを受けても致し方が無く思います。

おおむね同意ですが
「、日本人の血には知らぬ間に
脈々と仏教の教えが流れている、」
↑これは違うでしょう。
仏教じゃなくて、神道ですね。
八百万の神がいて、何でも受け入れると同時に、すたれた物も
なかなか見捨てない、というところが、日本の深くて多様な
文化、社会を作り、世界一高度な言語を産み出したということですね。
だから、どんな文化の国の人達と話しても、通じ合えるのです
(但し朝鮮を除くw) 例えばイスラム諸国の人達は日本が世界一
イスラム的な国だ。などということをよく言われます。
仏教の国の人だけじゃないんです。日本人が価値観が共有できるのは

日本語は、英語などに較べ曖昧でしょうか?

文章語としては、極めて客観的な表現が出来る言語であると思います。
ただ、曖昧な表現が好まれるということはあります。実際、曖昧な言葉、表現も多い。
   ネットウヨは、馬鹿で低能だ
なんて直接的な表現は、本来好まれないのです。
高邁な思想をお持ちのインテリを除いては。

昔から、日本は言霊(ことだま)の力によって幸せがもたらされる国、「言霊の幸ふ国」と言われてきました。
 言葉には魔力があり、言ったことはそのまま現象として現れる。
そのように信じられてきた為、直接表現、客観表現でズケズケ言うことは、「言挙げ」と称し、心の慢心、傲慢さの現われとされてきたのです。
 曖昧さが好まれるのはその為です。直接表現が齎す祟りを恐れてのこと。
 日本語で客観表現が出来ないためではありません。
 

■イラン人が説明する 親日の理由

・イスラムには厳しい決まりがありますが、現実にはなかなか守れていません。しかし日本はイスラム教の国ではないのに、はるか昔から
イスラムの教えを実践してきました。このことに我々は驚かされ感動します。 イスラムの教えをちゃんと守れている国はイスラム諸国にはありません。 世界で日本だけなのです。
だから、我々は非イスラム諸国で、日本だけは、我々の仲間と思っているのです。

・日本はイラン、トルコ、・・・などイスラム諸国をイジメてきたロシアや欧米諸国を日露戦争や第2次大戦で打ち破ってくれました。
アメリカには負けましたが、小さな日本が、多数の白人国家相手にひとりで ここまで頑張ったという事実は我々をどれだけ勇気付けてくれたことか
計り知れません

・敗戦でもう終わった国と思われていた日本が戦後は経済で奇跡的な回復をし 1980年代にはアメリカまで叩きのめした。これは凄いことです。
また、その後景気は停滞していますが、最先端の科学技術ではむしろ欧米を 引き離し、差を年々広げています。今は文字通り、突出した世界一の先進国と言っていいでしょう。こういう現実を知らないのは日本人だけです。 ドイツ人ですら日本車を選ぶのですよ。

・最近では、文化的影響力でも、突出した存在になってますね。
同じアジアの国である日本の文化がこんなにも影響力があるのは
我々にとってもうれしいことです。

・我々はどの国に対しても悪口を言いますが、日本に対して悪口を言う人は滅多にいません。イランで日本人になりたいか?アンケートをとったら
たぶん100人中100人全員がなりたいと言うでしょう。
日本はそれ程好かれているのです。
残念なのは政治的に弱いことです。この点は我々イスラム諸国が日本を支援していかなければと考えています。

神社とは、その土地を開墾し、我々子孫が食えるようにしてくださった、ご先祖様をお祭りする施設です。八百万の神々とは、日本が統一国家になる過程において、各地の氏族共同体の祖霊・開墾神が保存されたということ。つまり、大和朝廷は、組み込んだ地域国家に対して、それぞれのご先祖様をお祭りすることを認めたということです。
初詣がなくならないのは、まだ、日本人がご先祖様に対する感謝の気持ちを忘れていない証拠です。「なにごとが おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」、日本人が神社に参拝し、ご先祖様に手を合わせるときの気持ちを、西行法師が詠んでくれています。

一方、一神教は、征服地の神々(ご先祖様の霊)を破壊し、征服民を奴隷にします。一神教の歴史は内ゲバと対外テロの歴史です。今、舞鶴の神社が破壊されたり、天皇が攻撃されたりしています。このままいくと、日本人も祖先をもたない奴隷にされてしまいます。

仏教の皮をかぶった日本教

一見日本人は仏教徒かとよく思われるのですが、実は日本の仏教で行われている宗教儀式は、仏教のものでないものが少なからず見受けられます。それは何かというと、日本人が古来から行ってきた日本教なのです。もちろん、日本教には神道が含まれていますが、それ以外にも日本固有の宗教が仏教というレッテルの皮に隠れて、脈々と受け継げられてきています。つまり日本人の宗教とは、日本教なのです。

八百万の神々のような多神教は、大昔のアフリカでは(あまり調べていませんがおそらくヨーロッパでも)普通でした。しかし、あるとき、多神教の神々のうち私の崇拝する神のみが唯一の GOD であると主張する人が現れ、その人たち、つまり一神教崇拝主義者たちにより多神教派が滅ぼされてしまいました。それが、後にヨーロッパに伝わり、普及し、ヨーロッパ中が一神教になってしまいました。

日本語はあいまいにも書ける言語でありますが、そうでないようにも書くことができます。また、言語としては簡単な部類のわりに、非常に柔軟性にとんでいます。以下の件に限らず英語のほうがおかしいのです。

「英語式語順は、自然な思考の順番に反する」研究結果 | WIRED VISION
http://wiredvision.jp/news/200807/2008070921.html

シンハリ語(シンハラ語)・タミル語は、日本の古い言葉と近いという話があります。
真偽はよく分かりませんが、ユダヤ人がミャンマーや中国にまで達したりするのをみれば、日本に辿りついていても不思議ではありません。
仏教が中国を経由して日本に来る以前から、仏教的な心があったのかもしれません

宗教論

 色々な、コメントが出ていますが、それぞれの意見に良し悪しがあると思います。 ブログ主さんの考え方も一つの考え方として有っても良いのではないでしょうか?

 ソロさんの意見は長文すぎて、途中で読む気力がなくなりました。 人の考え方ですから、それでも良いと思います。 しかし、ここは貴方のブログではないので、意見を述べるとしても、簡潔な方がよろしいかと思います。

 あと、匿名投稿とは言え、せめてペンネームでも名乗って書き込んで欲しいと思います。 まぁ、私のペンネームも「R」で簡単すぎるとは思いますが。

 特に、「2008/09/19(金) 20:39:02」に書込みされた方は、どのようなお考えで書込みになられたのでしょうか? 反対意見を述べるとしても、最低限の礼儀というものがありますよ。 文章表現について、意見を述べさせて頂くと、訓練されている方だとは、思えません。

「外人と日本人の精神は根底から違うという考えを持っていましたが」と書いておきながら、その理由が、外国から入れた仏教にあるようなこと書いてあるんだから矛盾っぽくて良くわからないよね。

私も日本人は仏教ではなく八百万の神々を心に宿しているのではないかと思っております。基本は神道、そして後に入ってきた仏教が心の中に見事に融合されているのではないかと。
管理人さまは無宗教とおっしゃっていらしゃいますが(大半に日本人はそう考えていらっしゃると思います)、これは特に宗教について意識をしていないという意味で、実際は神道と仏教の教えが身体に見についているということなのではないでしょうか?
一神教のように強く教えを前面に出すのではなく(こうした姿勢は争いを生じると重います)、古来から脈々と受け継がれる精神を心に宿す日本人は世界でも異色な存在なのではないでしょうか。私はそんな日本人を誇りに思っています。

Kamisama

日本国の神様を英語約で「God」というのには抵抗がありました。
Godなんて約すべきではなくて「Kamisama」がいいのです。
KamisamaとGodはまったく異質だからです。
仏様は日本人の八百万のKamisamaのひとつのような気がします。

変化しつづける言語、日本語。

まあ、ここのブログは大人が多いので
「和を以て尊しと為す」で行きましょう。

日本語については、私も密かに優れている部分を多く感じながらも、
身贔屓しているだけかなとも思い、口にはして来ませんでしたので、今日の文章には爽快感があります。
日本語の優位点は、
変化の許容範囲の大きい事、漢字の造語能力(新語の理解しやすさ)、微妙な感情表現が豊富な事だと思います。
(日本人が身振り、手振り、顔の表情が少ないのは、言語の感情表現が豊富だからだと思っています。)
不利な点は、名詞の貧弱さだったのですが、漢字の造語能力で補えている思います。
(西洋哲学の訳本に、訳した方の苦労が滲み出ていますものねw)
それと、私も言語が思考に与える影響はかなり大きいと思います。
中国人と韓国人の精神性の違いには、言語による所も大きいように感じます。
中国の表意文字では1つ1つの単語(名詞、動詞)のインパクトを直接感じます、
(論理は伝わりやすいが、反面、曖昧さや感情を乗せにくい)。
対して、朝鮮語の表音文字では論理より感情を前面に感じる気がします。

宗教については
確かに、他の国の方と接する時、仏教徒の方が一番情の部分でしっくりきますね。
(特にやさしさの感覚は、会話しなくても通じる事が多い様に思います)
日本は畏れ、穢れ、言霊、和など無意識に近い部分では
原始宗教の流れを汲む神道を基層に、足りない部分を
思想、哲学、文化、道徳として仏教、儒教を取り入れて来たのでしょうね。

やはり、日本は良いとこ取りの文化ですねw

日本の仏教は、先祖を敬うことですが、本当の仏教では、先祖に執着するのは、よくないことだと聞いたことがあります。

神道と融合させるために、仏教は日本独自の変化を遂げたと思われます。


ナポレオン。ソロさんの妄想古代史はほとんど渡来人ですよ。
今の特亜とまったく同じ願望思考が分かっただけです。
ホツマツタエをお読みになってから、よっく考えて書き込みされてください。天御中主を起源とする神代から一系で続くすめらきの国、やまとしきしまであります。天御中主は固まったばかりの地球に降り環境を整え万物を産み、人類を産み、神を産んだ始まりの神です。此処から人類の歴史が始まったのです。
あいうえおの一文字一文字が神なのです。
ですから、和歌は始めから歌われていました。
此れを漢字に当てて意味不明にしたのが古事記です。
日本語は訓で読むのが正しいのです。
それで神と交信もできるのです。神が教えた言葉ですから。

大黒様や恵比寿様は、大和朝廷とは別の氏族共同体の神様でした。しかし、大和朝廷に組み込まれた後も、抹殺されることはありませんでした。大和朝廷の神々と合わせて、七福神のうちの二柱となり、全ての日本人から今でも尊崇されています。

一方、16世紀、日本にやってきた一神教は、寺や神社を破壊し(特に九州)、硝石と交換に日本人女性を性奴隷として奴隷貿易をおこないました(唐行きさん)。このことに激怒した秀吉がキリシタン禁止令をだし、家康が鎖国をおこなったのです。このような真実の歴史は隠蔽されていますね。GHQの焚書にあったのかな。白船によるハワイ王国やフィリピンへの侵略、その白船の日本への来航も隠蔽されている。

宗教とは?

基本的なところで恐縮ですが、宗教って一体何でしょう?
宗教一般で言うと、人類はずっと宗教でいがみ合い、宗教による戦争・殺し合いが絶えません。宗教が社会に害毒を流すとして為政者から弾圧されたり虐殺されることもあります。宗教上の理由で他の人達と違った習慣・行動になることもあります。自分の信じるもの以外とは敵対するというのも困ったものです。宗教による詐欺ビジネスや、お布施の強要、宗教法人の非課税を利用しての莫大な資産形成、政治団体化しているものもあります。婦女暴行事件もしばしば起きています。ネズミ講的布教や、奇跡的なもので人を信用させたり・・・といったこともあります。中国共産党と友好関係にある宗教や寺社もあります。いわゆる「市民」運動をする宗教関係者もいます。宗教にはまるとロクなことがない感じがします。
しかし、多くの日本人は神社やお寺にお参りしたり、結婚式は教会で行ったり、お寺で葬式をあげたりしています。お盆やお彼岸の行事もします。お墓参りもしていますが、どの宗教でお参りしているのかは知りません。
日本人の宗教との関わりは概ねこのようなものだと思います。日本はあまりParticularではない穏健な宗教が何となく根付いているところがよいのではないかと思うしだいです。

私も無宗教ですが、無神論者ではありません。神様に日本人に生まれた事を感謝しています。思い出した時だけだったりしますが。落ち込んでいるとき、近所の商店街のアーケードの上部に燕の巣を見つけて「どんなに悲しくとも明日は来る」と思えた時、力強く生きる燕に会わせてくれたのは、やっぱり神様だと思います。だって、落ち込んでいる時は普通上を見上げたりしないでしょ。でも私は上を見上げたんです。奇跡ですよ。四季折々の風景が日本人の豊かな感受性を育んで、稲作が協調性を育んだのでしょうね。

アンケードの取り方

アンケートなんだけど、
私は売国議員かどうかで選びます!

「IT製品の機密開示せよ」…中国が外国企業に要求へ

今回とは異なりますが、以前のエントリーの証左となる記事がありましたのでお知らせします。

それにしても、酷過ぎますね…

http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20080919nt07.htm
「IT製品の機密開示せよ」…中国が外国企業に要求へ
「暗号筒抜け」日米猛反発
 中国政府が外国企業に対し、デジタル家電などの中核となる製品情報を中国当局に開示するよう命じる新制度を2009年5月から導入する方針であることが18日わかった。
(2008年9月19日 読売新聞)

凡人さん

宗教とは、「社会の掟」です。人間は誰でも自分勝手な欲望をもっています。幼児のうちは母親に甘えていられますが、大人になって社会生活を営むようになると、甘えてはいられなくなります。その自分勝手な欲望を制限する掟を擬人化したものが「父性」であり「神」です。

KNブログ「日本史についての雑文 世界宗教史」では、仏教は「(穏やかな)統治の倫理」、一神教は「魔術の倫理w」として解説されています。
http://kn2006.blog66.fc2.com/blog-entry-495.html

私は毎日祝詞をあげます。たまに聖書も読みます。 般若心経を唱える事も度々です。日蓮上人が大曼荼羅を唱えたのもわかる気がします。一見節操がないように見えますが、良いものを随時取り入れ、それによって発展を遂げてきた歴史ある民族だという事です。つまりは、日本人なのです。多くの神々が宿る日本に生を受けた事に誇りを感じます。そしてそのような土壌風土があるからこそ、惟神(かんながら)の道にある皇室も仏教を受け入れる事が出来たのです。しかし、仏教でも日本に合わない習慣教えは削除されてきたという事も、忘れてはならない事実として記憶すべきと思います。

仏教じゃないよ!

日本は独自の神道だよ!

日本人よ、公の為にもっと喧嘩しろ

「和を以て尊しと為す」という言葉は、日本の伝統的な心構えの1つです。
しかしながら意味を少々誤解されている方がおられるようです。
以下の動画で高森明勅さんが解説されておりますので、是非ご覧ください。
http://zoome.jp/atatata/diary/229

>鈴音様
ホツマツタエに関しては実は研究が進んでいて、現時点で「偽書の可能性が高い」という結論が出ています。実際に作成されたのは、国学が盛えた江戸時代辺りではないかということです。
真書の可能性もゼロではありませんが、少なくとも論理の拠り所とされない方が無難です。
ただ、書いてある「内容」が全て出鱈目だというわけではありません。

はじめまして

はじめまして、いつも楽しく読ませて頂いてます。

源氏物語などを読むと源氏のパパが光源氏に向かって

『唐心(カラコゴコロ)も大事だけど、大和魂も大事だよ。』

と言っている場面がありますね。

つまり唐心(仏教の煩悩を抑制するストイックな精神)と大和魂(花鳥風月を素直に愛でる心)も大事だということだそうです。

そんなところに日本人の精神性の豊かさを感じます。

盛者必衰の理など仏教に由来する精神性と四季に恵まれた自然環境に育った精神文化が今の私たちの精神性を育ててきたのだと思います。

『和をもって貴しとする』は日本人から強いリーダーを奪っていると思います。

良くも悪くも日本は長い歴史の中でナポレオンやアレクサンダー大王、チンギスハン、秦の始皇帝のような英雄やヒットラーやスターリンのような独裁者を排出してませんよね。

日本で英雄的人物と言えば織田信長が限界と言ったところでしょうか。
(しかも足を引っ張られて殺されてしまうという…)

日本の政治が弱いのも多少なりともその辺が原因してるのではないかと思います。

少なくとも神道が根底にあって次に仏教かな
少なくとも偶像信仰より日本の場合は自然崇拝の方が強い
なぜならば自然崇拝=八百万の神々であり主に御神木など自然の造形物が進行の対象になりやすいまた靖国などでは御神刀など宗派や崇める対象は違うが基本的に物品が多い

少なくとも他の宗教のように、別の教えに対しての神々を悪魔と決め付けるような対立は起こりえないすべからく神なのでw
神道の場合は基本的にタブーが無いと思う、時代によって変わってきてるが儒教(日本に入った時点で変容改良されて本国よりまとも)+仏教(日本人に合うように変容改良)=現在の仏教の基礎が出来てたような
この時点で外の国の仏教とかなり違うはずだし

神道の場合は(儒教+仏教)÷2+神道=現在のって感じだし
なんにしても日本に入ってくると変容と改良されるから本国の宗教とは
殆ど別物になるwww
なんにしても生まれながらの神道だよ日本人は日本人の神は外国の神(GOD)ではなく神霊(スピリット)
食事の時頂きますにしても意味は命を頂きますだけど海外は祈り神様からの施しの様に感謝するだからね~


今の日本国憲法より、よくできている。


聖徳太子は「仏教」を政治に取り入れて日本を繁栄させた。
17条の憲法は、基本的精神の持ち方まで、指導。

人間には生きていく指針が必要だと思います。
これが何であるかで、その人の人生や生き方は、
違ってくるでしょう。

もし間違った指針を頭に入れていれば、間違った世界に行ってしまう。
聖徳太子は仏教を敬い、神仏から指針をいただいた。
,
憲法によって生きる指針を教えるなど、今の憲法とはるかに違う。
徳を持った政治家、思想家だったようです。

http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm

>良くも悪くも日本は長い歴史の中でナポレオンやアレクサンダー大王、チンギスハン、秦の始皇帝のような英雄やヒットラーやスターリンのような独裁者を排出してませんよね

別段英雄を輩出したからってなんら意味を成さないような、近しい英雄といえばWW2で散っていった特攻隊などは海外では英雄扱いですし
戦争終結後一部日本軍は、東南アジアの一地域その国の独立のために
現地に残りその国の方達と共に独立戦争を勝ち得た人たちもいます、
その方達はかの国での英雄で日本ではなくその国の国立墓地で無くなった多くの人達共に英雄として葬られてますよ、現在の日本はWW2は悪だと教えられてるだけで人として誇れる人たちを闇に追いやって来た経緯がありますから余りに過去にこだわるよりWW2の時代でも立派に誇れる人たちが居た事も忘れないでください

今日も楽しく読ませて頂きました。

日本人でよかった!
日本に生まれて幸せ♪と、

いつも感じさせてくださる、グログ主様に感謝しています。

私は聖徳太子の教えの高校出身ですので、
宗教という授業がありました。

今日はブログ主さんのお話を聞いて?読んで、
久しぶりに仏様の歌を口ずさみました。

♪野の花の、幼い命にも仏は宿る、仏は宿る♪

し、しかし、この後の歌詞が出てきません(-_-;)
で、でも、こんな私でも、死んだら仏様になれるんですね。

これからも、日本人で良かったと思わせてくれる
ブログを楽しみにしています。

合掌

「 如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も、 骨を砕きても謝すべし」

この教えに反発した高校時代が懐かしいです。

今からですと後出しみたいですみません。
皆様のコメントを拝見したところです。
管理人さんの仰るように、
>日本人の血には知らぬ間に脈々と仏教の教えが流れている
という言葉に何も抵抗はありません。この「仏教」という言葉を「神道」と置き換えても同様に抵抗がなかったものと思います。

日本は(ナポレオン・ソロさまのコメントに詳しく書かれていますが)長江文明や他の文明との平和的な邂逅から生まれ、それが現在の平和な日本文明の祖となっていると考えています。
また、平和な宗教であった仏教も日本の神道との幸運なめぐり合いを経て、日本人の宗教として現在に至っています。
日常我々が自分のことを無宗教だと感じている、あるいはそのように感じることができるということが、日本の宗教のもっとも偉大な点ではないでしょうか。
>仏教に云う、森羅万象悉皆仏性が、神道の平等、和の思想と結びついた
ものがまさに日本の宗教としての「仏教」であり「神道」ではないでしょうか。

誇れる国だと思います

外国の方々が、日本人の良いと挙げる点で親切・協調性がある・好意的と
よく言われてるのも、神道や仏教観がベースとしてはるか昔から脈々と受け継がれてきた結果じゃないかなと思ってます。世界でも恐らく最も、性善説とうものが通用してる国だと思います。ただ、近隣のド性悪説な国々から食い物にされているという事実もあるので手放しには喜べない点もありますね。

そもそも「神」に名前をつける事自体が。

私の感じでは、
神は常にすぐそばにあるもの、近くにおわしますもの、という存在です。
ただ、日本ではその存在に具体的な名前を与えていないだけなのでは、と思っています。神、と言う概念はキリスト教が伝わったあとにつけられたものでしょう。
神、すなわち「かみ」は上とも書けますね。(髪、紙も「かみ」なのは、髪の毛は頭の上にあるものだし、紙は神の御言葉を表す道具だったからでしょうか? こじつけですが。)
上、すなわち天、「あま」、天照大神、お天道様。
隠しているつもりでも、お天道様がお見通しだよ、といさめられたりするのも、一種の宗教観でしょうか。
そういう「うえ」「かみ」「あま」と言った名前があるにしても、私たち日本人が普通に感じている宗教としての具体的な名前ではないと思います。

普通、何かを考える時、何かに付いて論ずる時に、その何かに具体的な名前がないと、それについていろいろ検討したりすることは困難になるでしょう。
それで、考えをまとめたり論じたりするのに、名前を付けたりするわけです。
キリスト教やイスラム教では神に名前がついていますが、そういう具体的な名前をつけないと人々に概念を伝えられなかったからでしょうか。空気のように目に見えず、匂いもなく感じ取ることは出来ないのに、確かにそこにある何かの存在感。

仏教を広めたシッダールタは対象となる物事に付いては具体的な名前を付けなかった為、弟子の一人が、人に教えを広めるのに不都合が生じ、名前を付けたりした、とどこかで読んだ記憶があります。
また、シッダールタの種族である釈迦族が、アーリア系にありながら、言語が日本語に近いアルタイ諸語に近かったのではないかと言う話もあり、それが本当であれば、あいまいな言葉で語られていた為、それを聞き取り記録する弟子たちの苦労も大変だったのではなかったかという推測もあります。

日本においては、神の存在そのものが余りにも普遍的にあり、意識しないまでも、常にそばにあるので、わざわざ名前を付けず、しかしながら無意識的に神の存在を感じ取り、それを崇めたたえてきたので、世界一般のいう所の宗教観とは異なってしまい、「無宗教です」と答えてしまうのでしょう・・・。

ちなみに私は臨済宗建長寺派ですけれどね。

日本人の根幹を成すのは神(GODではなく)という存在を認知できる感性でしょうか。現在の「神道」と呼称された体系よりももっと原始的な、純粋な精霊信仰としての部分にそれが在るのではないかと思います。

「宗教」と異なり、聖典にこう記されているから、指導者がこう言ったから…ではなく、自分の存在を許容せしめるあらゆる存在を認知し、畏敬の念を抱き、それらに対し自分の感性で、かつ自己の責任において接するという行為こそが日本人の本来の神との付き合い方でしょう。

早い話が、全知全能の神とか、聖地やご本尊といった特定のものに帰依しなくとも、通りすがりの森や川に頭を下げたくなったら下げる、草花に話し掛けたくなったらそうする、そのあたりの名も無き神様と共に生きていく…これで十分なのではないかと思うのです。

稚拙な持論ですが、理想的な信仰というのは、現実的・物理的な事柄に最後まで沿うものなのだと思います。誰かの思惑、利益が関われば関わるほど権威や奇跡が必要になってきます。

普段意識せずとも、人間は自然から生まれて、周囲の環境を借りて生活し、自然に還る。自分自身すら借り物である…と割り切れる考え方が根底にあるからこそ日本人の美徳も生まれるのでしょう。

結果的に自分という存在(もしくは世の中)の救済を願うことに主眼を置くことで、別の何かを切り捨てることに繋がるのではないか…と私は思うのです。

それにしても、相変わらず管理人さんの問題提起はお見事ですね。勉強になります。

日本の文化

中国ですでに損失してしまったと、思われていた文献が
鎌倉で発見されたと言うことが、ありました。
世界の文化を、残している国は、ここしかありません。
日本語は本当にすばらしい。
だから、英語がうまくならないのだなーー。
(私の言い訳)
中国人は、自分の文化が無いものだから、一生懸命英語を
勉強している。
かわいそうな位に!!

宗教感について

ここの、読者のレベルは、本当にすごい。
仏教と、神道の違いについて、このレベルで、議論できる
ブログは、ここだけだろう。
神様がGODではないという、意見には諸手をあげて賛成する。
もともと、翻訳がおかしいのであって、絶対的な創造主を日本人は
想定していない。
だから、GODはむしろ、天とかに訳すべきで、日本の神様は欧米でいえば、
大天使と訳すのが正しい。
日本人は、神様は、自分たちを助けてくれる存在で、自分たちを裁く存在ではないと思っている。
裁く神は、砂漠のほうの、特定な神であって、普遍的存在ではない。
ネイティブアメリカン(インディアン)の信仰もそれに近い。

いつも拝見しております

>日本国民は成熟した大人の国民なのです。但し政治家以外は!

「その政治家以外」の一人、河野洋平が引退ですね。

少しずつ、まともな日本になれればと思う此の頃です。

ほかの宗教と神道の違いは
神々が居て人が居る、人が居るから神々居ると言うのが神道の根幹ではないでしょうか?

自然信仰や精霊信仰であるように鹿は神の御使いであり熊は山の神
狐はお稲荷さんや導祖神(土地神)と呼ばれるように他宗教この場合は神や仏と言った特定の存在を決めてしまった宗教には比較的見られない、
精霊信仰や自然信仰が主の国々ではよく見かける

しかし神道特に古代系の宗教の本質は人は神霊(自然)と対等であり恐れ敬うものとして考えられてきただから神の御使いや山ノ神よ言われても
日本人はそれらの動物の命を頂いてきた他の国では神獣と言われる動物は敬われる事はあるにせよ食われる事はまず無いですからねw
この辺の宗教感の違いが昨今の捕鯨問題にもあるのかもw

談合さえも、これが元。村の長が、最後に結論を出すのも、これが元。
談合が全て悪い訳じゃない。
和が日本人の宗教。世界に誇っていいんじゃないかな?

厩戸の王子は世界に誇れる日本の平和的完成を1400年前に謳ったんだ。入れ替わり立ち替わりの大陸には分かりません。

日本において英語が義務教育であるにもかかわらず普及していない理由も日本語だけで全く困らないからという事がありますね

Re:日本人よ、公の為にもっと喧嘩しろ

> 豊後んし様
「和を以て尊しと為す」の御指摘感謝です。
コメントが荒れそうな雰囲気もあったので使いましたが、ずれていましたねw。
当時の豪族達の権力闘争を諌める為の言葉なんだと思っていました。

ホツマツタエかぁ。夢がありますね。(邪馬台国の場所も)
宮内庁が陵墓(皇族の墓)の本格調査を認めればはっきりしそうですね。
(もし神代文字や古代ヘブライ文字がザクザク出てきたら学会は大混乱ww)
悲しいかな(日本の)学問の世界は儒教的師弟関係が濃厚で、先達を否定する者はあまり出世できません。
だから、教授の理論を否定する新たな解釈は往往にして黙殺されます。
(古代史のような事実を確定しにくい分野は特にそうかもしれません)
史実を隠すために作られた文書ですら皆で有難く信じている可能性もありますね。

その他、明治維新や大東亜戦争とその後の検閲、洗脳等々も。。。
この国の歴史学もまだまだ課題山積ですね。

宗教とは

宗教とは、「社会の掟」 というのは適切な解ですね。そう思います。まともな宗教はそういうものだと思います。有難うございました。

神道が基本

神道の紀元はとても古く、日本の風土や日本人の生活様式に基づき。自然に生じた神概念です。
このためキリスト教のキリストのような開祖はいませんし、「聖書」のような教典もありませんが、「古事記」や「日本書紀「、「風土記」などにより、神道の在り方や神々のことを窺うことができます。
日本人の生活と深い関わりのある神道は当初から宗教や宗派として認識されてきたわけでなく、仏教が大陸から伝来したのち、それまでのわが国独自の慣習や信仰が御祖神(みおやがみ)の御心に従う「かむながらの道(神道)」として意識されるようになりました。

以上は神社本庁教学研修所監修による「神道いろは」の最初の部分です。私も日本人は神道の基本のうえに仏教があると思ってます。日本人が大好きな祭りを例に出すまでもなく、伝統的な習慣、慣習の多くは神道ですよね。

 私も花うさぎさんと同じで、神道を基本として仏教を初めとする宗教も取り込んでその思想性を発展させていると思っています。

 仏教、キリスト教、イスラム教等の他の宗教が古い時代に作られた経典を原点にすることから、今の時代にそぐわない部分を持っても絶対的な創造主、預言者の言葉として重みを持ち続けるため、原理主義を排除できない危険性を孕んでいますが、神道には絶対神が居ない故に、時代に合わせた解釈もできます。

 このことは、日本人が新しい技術を開発するに当たって、神の教えに背かないかと心配しなくて済む利点を有していると考えています。
 また、命の尊重に関して日本人が最も高い意識を持っているのではないでしょうか。
 それ故に、生き物を屠蓄する職業への差別とも繋がりますが、殺人行為の一つとしての戦争への忌避感があり、平和主義と結びつくと自らの命に関わる国防をも否定する危険な側面も持っています。 
 しかしながら、多くの人々は、得られた情報に基づき冷静にかつ賢明な判断を下すものと思っています、ただ、特定の国に関わる否定的な情報についてマスコミ等が報道しないことが有り得ますので、このブログがその不足部分を補いより正しい判断を下す源になると思っています。

 他のブログでは、時として明らかに趣旨に同意できる場合は、飛ばし読みをしてクリックすることもありますが、このブログでは本文、コメント共にじっくり読ませて頂いています。

日常の生活に染み付いている

日本人は、無宗教・無信仰といえども、長い歴史の中で日常生活で信仰活動を実践しているのは間違えないと思います。

簡単なところで、日常の動作の中で、物をのけたり動かしたりする時に、足ですれば楽なのに、わざわざ手を使ってやさしく扱います。

これは、あらゆる物は、単なる物ではないという自覚が身に付いている証です。

浄土宗

浄土宗ですがお盆・葬儀の場合のみです御先祖には礼を尽くしていますが、無神論者でしょう。

しかし~「お天道様がみている」~これは持ち続けていたいと皆にも話して聞かせています、日本人が持っているこの気持ちは難しいことで無い自然のものとしてとして御先祖の言い伝え大事にしたいものです。

この心を持たないのは日本の「政治家」と言われていましたが「マスコミ」「評論家」「日教組」プラス「韓国」「中国」も加えてやって下さい。

プラス創価学会も

加えてやってください。(^^);;

日本文明

知人が写真展を行っている。彼はシリーズものとして三本ほどライフワークとしているが、その一つに「結界」というシリーズがある。
結界とは仏語(仏教用語)だが、仏教が日本に入る以前から、日本には結界と同様の概念があったそうだ。いわゆる神様の世界だ。
仏教がわが国に根付いたのも、そういう下地があったからこそと言えるのではなかろうか。
昨今、日本がおかしくなって来ているとするならば、それは「結界」が失われてきつつあることの現われなのかも知れない。

宗教というより精神活動の究極ツール

 ニーチェはアンチキリストで、自らは著述していないキリスト本人を批判してはおらず、これを利用した弟子をはじめ、価値の上下を固定化し、社会階層化を促進した教会組織(特権階級)、そして解釈論議を繰り返した哲学者(宗教学者)の空理空論を批判しています。
 キリスト教に限らず宗教信者は、ことあれば教義に立ち返り、組織に従属するはず。そこから得られる安心や便宜もあるでしょうが、限界も確実にあります。価値観や世界観に縛られます。

 我々日本人は、もっと深いところに立ち返ることができます。立ち返るところが深く根源的で自然であれば、物を見る目が深くなり構築できるものが豊かになります。それを促して導いてくれるのは神道的な何かで、それをベースに仏教も取り込まれていると思います。

 意地悪く言えば、いかなる宗教の神も教義のたぐいも精神活動なり生活運用のツールですが、神道は邪念やエゴを排した簡素簡明で根源的な「宗教」です。押し付けがましさがありません。
 根源に立ち帰らせてくれるので、色々な宗教や価値観を受け入れることもできます。日本文化が結果的に良いとこ取りに見えるのも、そこに一因があります。それに負い目など感じる必要はありません。
 私はノッペリ弥生顔ですが、縄文の血が流れていることを確信し誇りに思っています。

惟神の道
そもそも惟神(かんながら)の道にある神道とは何か。それは日本人が太古の昔より信仰する神々の道であり、理だと思います。その一番の祭祀者が天皇であり、皇室であり、それを受け入れた神道理念こそが一番に尊重されるべきと考えます。

木と水と太陽に恵まれた古代日本の自然環境が、
全ての源である太陽崇拝からアマテラスの信仰を生み、
時に荒ぶる天への畏怖と、豊かな収穫への感謝から
八百万の神々がそのパンテオンで時々トラブルはあっても
夫々の特技を生かして仲良く暮す神話を生んだのではないでしょうか。

神仏儒習合思想は太子様のオリジナルかも知れませんが、
それを受け入れる土壌は元々あったということでしょう。

仏教も色んな葛藤を経て無意識レベルで我々の行動規範に
なっています。

連日日本人に生まれてよかったー、と思わせてくれるエントリ感謝。
コメントの皆さんの薀蓄も凄くて、さっそく誰かに受け売りを企む
自分が恐いです。




宗教は社会の掟ではありません。

釈迦族はアーリア系ではありません。
我々と同じく環太平洋系です。
それから、宗教は「社会の掟」ではありません。
ユダヤ教はたしかにそうですが、イエスも仏陀もちがいます。
社会の掟としての「宗教」からは「道徳」が生まれ、迫害や粛正へとつながらざるを得ません。
本当の宗教は内面の浄化であり、進化です。
人間が内的に成熟するが故に社会が安定するのです。
これは道徳ではなく、本当の意味での「倫理」です。
神道・仏教・老荘思想に共通する環太平洋的思想です。

日本人の宗教観は四季の移ろいが明確で、様々な天災が絶えず襲い掛かる日本列島の過酷な風土と切り離すことができない。

天照大神を主神とする神道は荒ぶる神(天変地異)を鎮めることに大きな意義を持っていた。あるいは征討した異民族、誅戮した他氏、非業の死を遂げた者達(動物含む)の魂が暴れて災厄を起こさないように鎮める役目もあった。祭りで神を神輿に乗せ、近隣を暴れまわらせるのは年に一度溜まった鬱憤を晴らさせる意味がある。

日本人の列島における気候風土(台風、噴火、地震等)への畏怖が根本であり、1年1年生き延びえた喜びが四季への憧憬へと繋がっていく。

日本人の宗教観はこの列島の過酷で悲惨な現実が深く関わっている。

洗練?野蛮?

一神教を信じる方々は、多神教を信じる人を「野蛮」と感じるんだそうです。ましてや、「無宗教」なんて、野蛮の極みです(^^;。

そういう前提だから仕方ないのでしょうけど、前提を疑えない、不自由な方々だと私は思います。他方で、彼らの一貫した道徳観は、うらやましくもあります。いろいろであることが自然で良いと感じるのは、やはり良いとこ取りが染みついていると言うことでしょうか・・・。絶対主義と、政治体制としての共産主義と、一神教の原理主義に共通点を見出せるのは、皮肉と言えば皮肉です。他をくさして、自らを持ち上げることが「洗練」なんて、滑稽ですらあります。

幸い、一神教の国々に於いても、日本のソフトパワーは、概ね好意的に受け止められていますが、一部の熱心な信者の方々には、人間の本質に遡った議論を、長い期間にわたって吹っかけるしかないようです。「野蛮人」の言うことに耳を傾けてくれる保証はどこにもありませんが、人として「あるべき姿」には大して差異はないので、長期戦で臨む覚悟さえ決めれば、新たに知的好奇心をかき立てるテーマになりうると思います。

言葉足らずでした

英雄・独裁者というのは『非常に強い指導者』という意味で使いました。
善悪の意味ではありせん。

日本は個人主義ではなく『和』を基調とする集団主義の国だと思います。
明治維新にしてもWWⅡにしても特定の個人が強いリーダーシップを発揮したというよりも集団でやってきたというイメージがします。

この国では特定の個人が強い指導力を発揮するのを好まない文化があると思うのです。

他国と違い、古代より権威(天皇家)と権力(関白・将軍・首相)を分けるのも、その一例ではないでしょうか。

織田信長はその強い指導力で室町幕府を倒し、兵農分離で身分を固定化、楽市楽座で経済構造改革をし、延暦寺を焼き討ちにしました。
また、一説には世界戦略を持っていたとも言われています。

そのような強い指導力を持つ、特定の個人というのは日本から中々出ないのではないかと思います。
せいぜい信長が限界だと思います。

また、同じ集団主義の朝鮮では儒教を基軸とした厳しい上下関係で成り立っていますから、北朝鮮にしても韓国にしても独裁政権が成立しやすい土壌があると思います。

一方で日本では本能寺の変や桜田門外の変のように、強い指導者が討たれやすいので独裁政権も出来にくいのではないかと思います。

これは意味のあることだと思うのです。

>>周作

現実過去宗教による弾圧や迫害はあったと思いますが
仏教も迫害や弾圧をしていた事もありますし

掟ではなく教えであり道徳ではないでしょうか
そして倫理ではなく真理であると思います

神道以外の宗教にあるのは神や仏の真理を目指そうとする事であり
進化ではなく解脱だと思います悟りを開き解脱する
解脱・精神的上位世界へのシフトと言えばいいのかな

キリスト教などは1に神に対しての忠誠であり次に真理の探究でありますから道は違えども仏教とキリスト教などはにているとこがありますが

0:06 の方
>神道以外の宗教にあるのは神や仏の真理を目指そうとする事であり
進化ではなく解脱だと思います

そうですね。しかし本来の仏教は修行者のものだったのでしょうが、
鎌倉時代の高僧達が仏教の真髄を解かり易く、専修念仏や
唯一信心と特化したことで、仏教は庶民のものとなっていった
と思います。

それが妙好人という生仏のような人を生み出す母体にも
なりました。

ただ唯一信心は民衆を扇動するような教団も生み出した
わけですから、難しいところですね。

こんにちは。

>外人と日本人の精神は根底から違うという考えを持っていました
ところで、日本人はどうやって日本人になるのでしょうか。
神道であれ仏教であれ義務教育では教えていませんよね。
誰に習ったのでしょうか。

神々の国と言えば、「知られざる日本の面影」
(http://longuemare.hp.infoseek.co.jp/yakumo_kami_01.html)で知られるラフカディオ・ハーンが、まだここには日本が残っていると言った松江がなぜ彼に神々の国の首都であると感じさせたのでしょうか?

教義も経典も戒律も無く教えられる事もほとんど無い宗教がどうして深く根付いているのでしょうか?
外国人が理解するには松江に住むしか無いのでしょうか?
(http://aa01.com/jculture/jcl-j/6000/6008.html)
(http://www.sairyusha.com/archive/2002/10/20/%E9%81%93%E3%81%B0%E3%81%9F%E3%81%A7%E5%87%BA%E4%BC%9A%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC/)
(http://aa01.com/jculture/jcl-j/6000/6008.html)

神道も忘れずに!!

×第二次世界大戦
○大東亜戦争

法と宗教、宗教が必要な社会

>熊のぷーたろーさん
>>一神教を信じる方々は、多神教を信じる人を「野蛮」と感じるんだそうです。ましてや、「無宗教」なんて、野蛮の極みです(^^;。
 ↑の西洋人の考えは、維新後に日本に来て日本を知った外国人達の驚きに現れて居たと思われます、彼等の驚きは「何故、クリチャニティーが、殆ど及んで居ないのに、こんなに道徳的なのか」でした。

 法といいますが、日本にあった法(ダルマ)は元々仏教語です、予め其処にある「定め」や「決まり」で、人間がドゥすることもできないモノなのですが、本来は西洋に云う人間が契約によって定めた、人間の社会行動を規範する「法」律以上の範囲の掟として、心の戒律として、人の内外に存在する宇宙の定めと言うべきモノではないでしょうか。

 Wikiに拠れば、明治になって、西洋の近代法に接した日本の学者が、法という訳語を宛てたのは、ローマ法の ius に対応する系列(ドイツ語の Recht, フランス語の droit, イタリア語の diritto など)と、lex に対応する系列(Gesetz, loi, legge など)に対してです、英語なら、law,lawsに当たる言葉でしょう。

 前者は人為から独立した自然・本性を基礎とする自然法としての法、あるいは発見される法を、後者は人為により成立する実定法としての法、あるいは権力者や主権者によって定立されたモノを云うのだそうですですから、欧米が、法を詳細に分類するのは、宗教も神との契約に拠るモノである事と無関係ではないと思います。

 日本ではそのように、法に対する厳然とした区別は、ソレまで必要としなかったし、是からもしないであろうと考えたから区別せず、法と言う一つの訳語を宛てたのではないかと思うワケです。

 つまり、日本には基本的な道徳律である、和と平等、互恵扶助が神道に拠って示唆されていたし、その象徴である司祭王天皇家も実在されて居られた、亦、日本で最も受容された仏教では、宗派に拠らず、利他愛でこそ、人は自身も救い得る事を教えられて居たのですから。

 そも、戒律や掟の要素が多い宗教をその社会が必要とするか、しないかの差は、所属する社会に元々原因が有るのだとは考えられないでしょうか、つまり裏返せば、諸々の法律を定め細分化しなくては、平和を保てない社会であると言うことです。

 では、朝鮮族やシナ社会はドウカと云う話しになりますが、彼の国々は、先ず、社会を構成する基本的な考えである共産主義ならぬ共存主義の考えさえ無いのでは、遵法は、為政者の悪企みに参画・協力する事でしかなく、決して法律本来の「自分の身を守る」モノでは有り得ないからでしょう。

エントリーの内容とコメントの素晴らしさに日本人の素晴らしさを再認識します

連日の素晴らしいエントリーに感謝しています。
また、多くのコメントを入れてくださっている方々の内容の深さに日本人が持つ寛容と和合の精神そのものを見る思いがしています。

コメント欄を含めて、これ程日本人の質の高さを認識できるブログは他にはないと思っています。
(一神教の国、米国在住者より)

近隣諸国(インドとかビルマとか)へ行くときビザの申請書や出入国カードに「宗教」を記入しなければなりません。いつも「仏教徒」と記入していますが自分ではなんか違うなーとずっとずっと感じていました。「無宗教」なんて書いたらどんな誤解を受けるかわかりません。いまでは「神道」って記入するのが自分で一番納得できる気がします。

周りのタイ人はほとんどが敬虔な仏教徒。イスラムのひとも多いです。
この他にタイには「ピー信仰」があります。ピーは土地に住む幽霊とか精霊みたいな存在でして、それを祀る祠があちこちにあります。タイ人は祠を前を通過するときは軽く合掌します。ときにはお供え物をして長い間祈祷しているひとの姿も見られます。上座部仏教とはまた異質なものであって、これは日本の神道に似ていると常々思っています。

タイのことを書かれたので私も一言書いておきます。

チェンマイに行くと山岳少数民族ツアーがあって、山の部落を訪れます。
英語のガイドが「ここの人たちは精霊信仰(アニミズム)です。日本人もそうですね。」と日本人がいると話をこちらに向けてきます。

私は、この「八百万の神」信仰こそが日本の発展の秘密だと思います。同じアニミズムでも山岳少数民族のものと日本人のそれとは違うと思います。陶芸にしろ彫刻にしろ、素材を生かそうとする、素材が作者に呼びかけてくる。そんな感覚や考えを日本人は持っており、それが匠の心や職人魂に通じていると思います。

やはり神道が日本人のバックボーンではないでしょうか。

日本の奥深さ!

日本語の奥深さ、
DNAに刻み込まれた精神
趣や風情感
外国人には理解不能なのかもしれませんね
大切にしたい精神文化です。



いつも楽しみに拝見させて頂いてます!

さて…オイラはレノボ氏のご意見に同感であります。
石黒耀氏の小説「死都日本」での古事記の読解部分を読んでて痛感しました。
日本人ちゅうのは古事記の時代から打たれ強いというかなんというか…
日本って内乱はしょっちゅうでしたが、島国ゆえに外から攻められることが
ほとんどなかった。
でもその代わり(と言っちゃあなんですが…)に、火山・台風・地震…etcと
あらゆる災厄による世界でも稀に見る被災大国w
よくまあ滅びずここまで発展したもんだなぁとつくづく感じます。

戦争以上に、人間の力ではどないしようもない暴力にさらされ続けてきましたから、
他に類を見ない独自の宗教観が発達し、融合し、草の根的に普及せざるを
得んかったちゅうことでしょうか!?

これらのことをつらつらと考えると、日本人の「和の文化」「ある種の諦観」
「被災後の回復力のすごさ」「職人への敬意」「技術・物作りに対するこだわり」
「騙されたり痛い目を見てもすぐ忘れるとこ」
などなどが見えてきたり納得いったりするような気がします。
これまでずっと建設業界や族議員が幅を効かせていられてるのも、
日本の風土と歴史から来るどこか遺伝的恐怖みたいなものがあるんかな?

そういえば、他の宗教はすべて「○○教」なのに、神道だけは「道」なんですねぇ。
今気が付きましたw

いつも拝見させ頂いています。今回は宗教がらみで、根気よく全コメントを拝読させていただきました。
私は20歳の時にカトリックの洗礼を受けましたが、何年かして「ローマ人への手紙」あたりで矛盾を感じてしまい、とうとう遠のいてしまいました。
それからは仏教の本やとても良い新興宗教にも興味を示しましたが、人間を教祖とする宗教にはいまいち納得できませんでした。
それが、ある日、古い古い創建も判らないような神社に行って、精神的に感動を覚え、身もふるえるようでした。
まさに「何ごとかおわしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」でした。そこに神がいるような感じを受けたのです。
よく小さな頃、「誰が見てなくても、神様がみてるから、悪いことをしたらだめだよ」と言われましたが、その神そのものですね。
日本人が神社にお参りに行くときは、何かをお願いに行くときです。
「どうか神様、何何してください…」なんて。
でも、お願いするには、自分もちゃんとしていなければなりません。清廉な気持ちを持って、生活していかなければ神様はお願いを聞いてくれないでしょう。そこに日本人の心の本質が在るのではないでしょうか。正直で、誠実で人を裏切らず、優しく、寛容にいろんな事を受け入れる。
日本人は馬鹿正直だと、よく外国の人に弱点のように言われますが、その性善は自分で自分を戒める神道精神から着ているのだと、最近つくづく思うのようになりました。
ちなみに我が家では家の中に、きちんと神棚を祀っています。

ネトウヨ

Shoichiさんがちらりと使っていますが、“ネットウヨク”は、もともと正しくレッテルを貼ると“反反日”のことです。つまり日本人のことです。ウヨクだとかサヨクだとかいうイデオロギーは「まったく」関係ありません。“反反日”のような的確なレッテルを貼ると困るような人達が、自分たちの思惑通りに無知な人間に対して思想誘導できるプロパガンダ用語として、執拗にレッテル付けしているのです。「日本解放第二期工作要綱」に出てくるような“反動極右分子”と同じプロパガンダ用語で、要するに彼らの対日侵攻/異民族による日本のっとりシナリオの遂行に当たって存在自体が非常に邪魔と言っているわけです。
これは、完全に情報戦という名の戦争なのですが、日本人の多くは自覚がないように見受けられます。その証拠に、現状彼らの思惑通りに、自覚なしに彼らの手のひらの上で踊る人達がたくさん出てきつつあります。なぜなら、プロパガンダ用語であるにもかかわらず、それを訂正させるどころか、声高に叫び、使用し、さらに拡散、無知な人に対し認識させているからです。彼らに尋ねてみてください。あなたのおっしゃられている人達は「ウヨク」なんですか?と。彼等は返答できないでしょう。そう、彼等は自分が如何におかしなレッテルを使っているか、そもそも自分が何をしているのかが、まったく理解できないのです。何故そんなおかしな言葉を自分は知っているのか、誰が何の目的で作成し拡散させているのか、ということすら少しも疑わず考ることすらしないのです。

願いはかなう


人間一度は大いなる理想のために生きる。という決意は必要だと思う。
精神的に老い込まないためにも。
どういうことかというと、夢や希望のない人間。
こういう人は肉体が若くても、すでに老い込んでる。
そういう人は、愚痴や不平不満を言い、生きるのはやめたほうがよい。

青年でいるには、人前で話す場合は、希望に満ちた言葉を話せるようでなければならない。
だいたい体が、弱ってくる前に精神が弱ってくる。

「言葉の力」は口にすることも大事だが、「想い続けること」によって、
潜在意識に繋がり、さらに力を増し、力強い未来を引き寄せてくるものだ。

日本でも、ことだまといい、古くから信じられている。
この日本人の考えかたが、戦後の悲惨な状況、過去の悲しみにとらわれずに、
日本は発展繁栄できた、と見る考えもある。

中韓が、日本の発展、成功を見習いたいのならば、この部分の影響は大きいと思う。

日本のよさを再確認できる場所

海外に住むと、日本人に生まれて良かったと実感することが増えた。
日本人として誇らしく思うこともしばしば。

その反面・・・・海外からみた日本を心配になることも増えた。

各国問題が山済みなのは、どこも同じ。
しかし結局のところ、自分の国を守るのは私たち国民であるはず。だからこそ、著者も思いや考えを発信し続けて、私たちの心に語りかけてくれている。
こうやって日本のよさや力に気付かせてくれることに本当に感謝を申し上げたい。

今の日本を立て直すには・・・国民が気付き、正しく行動をするしかない。






>日本国民は成熟した大人の国民なのです。但し政治家以外は!

私はこれに異を唱えます。
ほとんどの日本人は政治家の立場になれば、今の政治家と同じことをするではないでしょうか?
その環境下で何十年も己を貫き通すことは容易ではありません。

政治は日本の縮図という側面もあると思います。
まずは自分を見つめ直すところから始めるべきではないでしょうか?

東京というのはすごい街でね。
ありとあらゆる宗教施設が集まっている。
特に渋谷。
日本最大のモスクもあればキリスト教会もあるし日本ユダヤ教団も籍をおいているしetc~etc~(明治神宮は書かなくてもわかるよな?) 
この密集度は他に例がないと思う。
にもかかわらず、宗教を理由とした武力紛争や諍いが(オウムのテロは別として)ないってのは日本以外じゃ考えられないんじゃないかな。

「欧米への劣等感がこびりついて」
「政治家はダメ」
この二つで程度が知れるようだね

日本を誇りに思うのは大いに結構だけど
もっと客観的に考えたら?

>日本を誇りに思うのは大いに結構だけど
>もっと客観的に考えたら?

この手のコメントを見るにつけ、日本人を見下す反日売国奴どもへの嫌悪感が
より強くなっていく。  

我は何者

>ツガル外三郡誌の名称を流用させて頂きます。
ンポレオンソロさんへ 上記文献について詳しいのですか。ボランティア会というよく街角で募金活動している団体の一人と話したときに、日本人の
ルーツを知るには上記文献からわかるといっておりました。
偽書ともいわれているようですが、教師をしているという彼女の日本人は
知的好奇心をよぶものでした。



日本語は、歌うのにも向いた言語だそうです。
日本語は、イタリア語(&スペイン語)と並んで「最も歌いやすい言語」といわれます。

http://www.tamakimasayuki.com/musica/bn_18.htm
>イタリア語、日本語とも、母音はa,e,i,o,uという単純な音のみであり、
>子音同士の重なり合いもなく、大きな声での発声(歌うこと)に適した言語といえる。
>じっさい、現代の「三大テナー」と称されたパヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラスは、
>口を揃えて、「最も歌いやすい言語はイタリア語(とスペイン語)と日本語」と語っている
>(ちなみに、最も歌いにくい言語が「英語」であることでも3人の意見は一致している。
>イギリスはシェークスピアの演劇や詩は発達させたが、英語の歌はなかなか発達せず、
>英語がアメリカに渡ってアフリカのリズムと出逢い、ブルースやジャズ、
>さらにロックンロールが生まれて初めて「英語の歌」が誕生したと考えられる

ちょっと驚いています。

ご意見を拝見させていただいて、大多数の皆さんが宗教とはなんであるかを分かっていない(気づいていない)ことにとても驚いています。

そんなアンケートをとったことが無いので、ある程度はみんな気付いているんだろうなと勝手に思っていました。

宗教が必要のない人間はこの世に一人もいません。

そして人間の苦痛(恐怖)は1種類しか存在しません。

宗教とはただ一点=「有限性の否定」に他なりません。

まだ知らなくてもいい年頃の人もいると思うので、ここまで呼んでピンとこない人はどうか飛ばして次のコメントを読んでください。

何故人間が他の動物と違って宗教が必要なのか。

私は自分の飼っている2匹の猫を観て思いました。
2年ほど前、片方の1匹が死にました。
もう1匹はそれをみてとても怖がっているように見えました。
私は自分の宗教観から「あれ、猫も死が理解出来るのか?」と驚いていましたが、それはあくまで他人(猫)の死であって、自分の死ではないのです。そう、人間以外の動物は「寿命」を理解出来ていません。他人(猫)の死を観て、「怖いけど、まさか自分にそれが降り掛かるとは理解出来ない」「あいつは運が悪かった」とおもっているのでしょうか。

しかし地球上の生物の中で、文字と言葉を持ち記録を取れるようになった人間だけが、過去の経験から「有限性」を悟ってしまうのです。

有限性とは貧しい人にも、強大な国の王にも等しく襲う苦しみです。
今から2500年以上前、ゴータマ・シッダルタ(釈迦)はこの苦しみからすべての人々を救う方法を探し、菩提樹の木の下である精神論を見いだし、その考えはその後の人類の苦しみを救いました。(ものすごく端折ってますね。申し訳ありません。)

ここからははっきり書きます。

人間は死にます。

その恐怖は、死後「無」になることを恐れる故に感じる絶望です。

私は度重なる親族の両親の死を見届けるうちに、信仰心を強く欲し、必要としました。

しかし私はおそらく死ぬまで幸せです。

釈迦が瞑想の中でブラフマンに教えられ悟りを開いた後、人々に(最初に説法を聞いたのは鹿ですね。東大寺では大事にされてますよね。)説いたのは、人間(動物)は死ぬと魂が一つにまとまり、やがて違う生命に宿るためまた分散するという真理(真如)でした。
仏教では六道(六道)を巡ると言われます。そしていつか「極楽浄土」にたどり着き、永遠の極楽を得るのです。

つまり、死ぬと違う生命に生まれ変りを繰り返し、いつか永遠を得るという、「有限性の否定」が宗教の核心なのです。

ここで私は、キリスト教やイスラーム教と、仏教や神道をやたらと比較し優劣を付けることに意味は無いと言いたいです。

人間の「有限性を否定」する概念である仏教の「極楽浄土」は、キリスト教や、イスラーム教でいう「天国」です。いずれも人々を苦しみから救う「宗教」であることにかわりはありません。
ちゃんと理解も出来るはずです。

日本人は無宗教。

それは当然違います。

世界で最も信仰心が強く、無意識のレベルまで達した民族です。
海外では学校で宗教を教えますが、ここの方が言う通り、日本人には生まれながらにして仏教と神道の精神が根付いているので、学校で教える必要はありません。

まだ信じられない人は他人や自分にこう聞いてください。

「あなたは天国を信じますか?輪廻転生を信じますか?」
どちらも仏教の核心の部分です。

これであれば過去に何度かアンケートがとられていますよね。

まさかとは思いますが勘違いが無いように言っておきますが、私は新興宗教など信じていません。
私が求めるのは自分や他人が「その日」まで笑って生活出来る精神を養うこと。
その時にはうろたえずに「向こうで待ってるよ」といって笑って別れられることです。
新興宗教の見分け方は「現世利益」の追求が大きいこと、単純にお金が掛かることでしょうかね。
先祖を祭るために私も幾らかのお金を払いますが、基本的に信じることにはお金は掛かりません。

さっき「真如(しんにょ)」と書きましたが、この真理の世界「如」から「来」た仏を「如来(にょらい)」といいます。
5世紀以降の仏教はこの如来を宇宙の中心ととらえ、大日如来を頂点に二つの曼荼羅の世界を想像した密教の世界がありますが、この密教は日本に世界に二つとない壮大な文化を1500年の歳月をかけて形成しました。
これらの世界で唯一無二の美術的な美しさと、源流である教えをしっかり結びつけて京都などの古都を巡るのが私の趣味です。

あ、ここまで読んで私がいい年のおじいさんだと思った方、申し訳ありません。
私はまだ33歳です(笑)

皆さん、ここの方、お体に気をつけて良い衆生(しゅじょう)をおくってください。

驚いています2

神道についてちょっとだけ追記させてください。

ここにコメントを寄せられる方は神道について、私などよりよっぽど詳しく、いろいろな角度から勉強されている方が多いなと驚いています。

わたくし仏教者ではありますが、日本人ですから神道に対する「祭り」を忘れたこともありません。

世界でも二つの宗教がここまで深く共存している国も珍しいですね。

まさに神仏習合。

過去には廃仏稀釈などの争いも無くはないですが、今も尚その融合文化は盤石たるものがあります。

それは、奇跡的なまでの役割分担が可能だったからなのかもしれません。

お葬式や大晦日など、人や時の「終わり」を祈る仏教。

生命の誕生を意味する結婚や、初詣など、人や時の「始まり」を祭る神道。

来世の幸せを祈る仏教。

現世の五穀豊穣、国家安寧を祭る神道。

美しいまでの役割分担、神仏習合が、日本人の豊かな人間性を形成していることは想像出来ます。

伊勢神宮の式年遷宮が近づいてきました。
20年に一度、1300年以上耐えること無く、変わらず続くお祭りや、今だ電気も使わず炎の明かりの下で天皇陛下や皇室が滞り無く行う神事には、仏教とはまた違う「生命の連続」を祈る精神を感じます。

人が次の世代に継いで行くことの尊さが胸を打ちます。

【余談】
嫌な話があります。笑い話に近いです。

「経済(お金)」も宗教だという人がいました。

何にでも交換出来る貨幣のあまりにも大きな「万能性」が、ついには「地獄の沙汰も金次第」という言葉を生み出してしまいました。

六道の一つ「地獄」もまた「有限性の否定」ですから「救い」なのですが、したたかな人間は一生懸命経済活動に励めば、地獄ですらも万能なお金で幸せが手に入ると信じてしまうのです。

わたしは信じたくはありませんが、皆さんはどう思いますか?

この部分に反応するのも何ですが、猫が寿命を理解できないというのは個体差はあれ自分はないと感じます。動物病院の先生も話していたことですが、猫は己の命があとわずかだと察すると水も食料もとらなくなりその時がくるのをじっと待つ子もいる、二十年以上我が家で暮らした猫たちにもそういう子がいました。(野良猫は事情が違いますが)自分も不治の病気になったときには見苦しく振る舞わず同じように死を受け入れなければ、などと感じましたよ。

やはり皆さん凄いです。

宗教の話には疎いのでずっとROMしていましたが、
ここまで来ると一言書かずには居られなく・・。

皆さんの仏教・神道に関する知識、認識の深さにはただただ感服しております。
特に「基本に神道あっての仏教の取り込み(融和)を見事に果たした日本」
という認識は私には無かったものでした。

「『無意識の意識』にまで登り詰めた究極の宗教観」だったのだと知り、
「ああ、我々もやはり「仏教」(『神道仏教』とでも言いますか)なのだ」
私は【無宗教】です、といつも言っていた自分も実はそうだったのか、と
少なからず恥じ入っております。

脈々と受け継がれて来て、私たちを経てまた脈々と後世に受け継いでゆく、
我々はその中の「一日本人なんだ」と強く感じました。誇りに思います。

素晴らしいエントリーと素晴らしい多くのコメント、ありがとうございました。


>>上海オフィースの連中からは「それは日本の仏教ではなく中国の仏教だ」と突っ込みが入ったのはご愛嬌でした(笑)。<<

『じゃあ何故中国人が言わないのか?」と、まともな感性を持ってる外国人ならきっと思っていると思いますよ。シナ人は本当に朝鮮人によく似てますね。一度もそのような事を言ったり、したりしたことが無いくせに、日本人が褒められると、直ぐに「それは自分達の物」という習慣が、骨の髄まで染み込んでいるのではないでしょうか?(笑)

だいたい、『中国仏教なんてものがあったら、仏教徒であるチベット人、をあそこまで侵略し殺せるものではありませんよ!』と、中国人に言い返してやりたいですね。


神道がかわいそう

日本人全般に、神道と偏狭なナショナリズムや戦争促進などとを結びつけた固定観先入観がまだあると思います。テレビの戦争特集番組や歴史教科書からは、神道は悪いイメージしか持ちようがないのでしょうね。

神道が可愛そうなのは確かですね少なくともww2当時の世界では
戦争=悪ではなく戦争=外交が正しかった思います

少なくとも国を纏めるのに使われると宗教というのは、一種の暴力機関
となり果ててしまうのが、悲しい所ですね

古来より原始宗教を除く殆ど宗教は敵対するものを駆逐しながら拡大していく覇権的性質も持ち合わせていましたから対立や虐殺もかなりの数がありましたし、いかな奇麗事言っても虐殺があったことは確かですし

WW2当時神道の国の日本とキリスト教圏の連合国では戦死者の数では
圧倒的に日本側の方が多いですし・・・アメは捕虜を取るのを嫌がり投降してきた住民及び軍人を殺害してきた、連合国側と日本側の捕虜の数が段違いなのはそのせい

マスコミの偏向報道では日本側が悪いと言う事しか報道してこなかった
少なくとも自国を叩くだけの行為が国の為と思ってる反日に染まった左翼(今の日本の左翼は国益の為ではなく単なる反日(国家の利益にならない連中他国の左翼は国益を優先させるただしそれが常に正しいとは思わないが)
がこの国の中枢に沢山居るのが問題、本来靖国に参拝も他の国では
自国の首相が国立墓地に参拝するのに他国から文句つけられるのがそもそも可笑しいですし

私の考えでは本来の仏教は先祖に対する縛りすら邪魔になると考えられてきた思います

そこで神道と仏教は先祖を崇拝の思想がある儒教を取り込んだのだと思います、中国や韓国それに日本でお盆と言う言葉を聞くのはその為ではないでしょか?

チベット仏教などではお盆と言う考えはあまり聞かないので、もし合ったらごめんなさい自分の知識不足です^^;

常日本の宗教の場合は根底に神道があるおかげで他国と違いつねに時代にあった進化をて来たのではないでしょうか
キリスト教などは日本の憲法のように解釈が人それぞれで違ったり
解釈にも限界が出てきたりと閉塞感があるそうですイスラムなどは停滞
と言っていいぐらいに変わらないですし

日本の心

主のいない館でいたずら書きをしているようですが「騒ぎでプログ主がお目覚めになるのでは」が狙いです。

弥生人が犬を食した形跡があるのに対して、現代日本民族の骨格をなす縄文人は飼い犬を埋葬する等やさしい性格であったようである。何故現代日本民族の主流が縄文人であったかと云うと、奈良から江戸時代にかけ家畜の肉食は主流でなく、特に養豚という非常に効率のよい食肉文化が無いからである。

勿論仏教の影響もあるが、仏教国であった時の中国で依然肉食が行われたのを見れば、忌食肉は日本独特の歴史文化であろう。(中国では唐への留学僧円仁が、罪人が切りとられて食べられていたことを目撃したように、人肉でさえ食べられていた)

この日本民族の縄文的性格は、埋葬される幸せな家畜もいるのに、人や他の動物に食べられる生き物がいるこの世の不条理さを感じていたと想像できる。そこに入ってきたのが仏教である。釈迦の教えの諸行無常という概念は、戦いで武士達が死に行く様や、人や動物、草木に至る、生死の移ろいを見る日本人の心を説明してくれる無くてはならないものになった。その無常観は、やがて物の哀れや侘び寂びの芸術観まで昇華される。

日本以外の仏教国に、物の哀れや侘び寂びが無いのを見ると、日本は釈迦の教えを忠実に守る仏教国と云うより、日本人の心に合うように解釈された仏教が続く国なのだろう。むしろ縄文から続く古来からの心を仏教で説明しているとも言える。

そんな日本人でも相手が仏教国であるなら心情的な理解が可能であるが、キリスト教国となると些か異なる。我が家には時々エホバの会の信者の主婦が二人連れで訪れる。自分は肉食で無いのでエホバの会の人も菜食と思い、菜食グルメ等教えてくれるのではないかと思い、尋ねたら。屈託の無い声で、肉は食べますよーと、ドライな答え。

説明してくれた処によると、主が認可さえしてくれるのなら、なんでもOKなようである。物の哀れ等入る隙間が無い。それでも彼の婦人達に、屠殺場の先導馬は気が変になる職業病に罹る率が高く、長続きしないと説明したら耳を塞いだので、やはり気持ちは日本人みたいである。多分日本のキリスト教徒は、こう云う不条理を諸行無常や物の哀れで補っている筈である。

現代日本人ならキリスト教国の人間の契約に基づくドライさも理解出来る。グリンピースのダブルスタンダードだって理解出来る。分からないのは、NHKのアナウンサーに代表される左巻きの連中である。ひたすら日本人に悔い改めよと云い、戦争反対をと叫ぶ姿は、宣教師のようであるが救われる契約の論理等無い。そのくせ日本人が持っていた諸行無常や物の哀れ等、理解していない。日本西欧の両親の悪しき部分のみ受け継いだ鵺のような存在である。

NHK等、話すと気色が悪くなるので、本題の日本語力に。

呉善花氏も日本語は人格を変えると云っていた。日本語では言葉は理解させることでは無く、相手と同じ気持ちになることであり、その日本語を使うことで罠にはまってしまうらしい。石平氏も相手に気持ちを伝えるのには中国語は適当でなく日本語が勝ると言っている。夫婦喧嘩は中国語で、仲直りは日本語で、と言ったみたいに。

これ等を見ると角田忠信氏の『子供の頃に日本語環境で育つと虫の声も左脳で理解してしまう』との研究も意味があったと思える。

一方日本語は論理的でないと指摘する人がいる。殆どの論文を英語で書く知り合いの研究者にもそう言われたことが有るが、文語体を使えば寧ろ英語より論理的になるのではないかと思う。尤も文語体の元になっている中国語は、黄文雄氏が指摘しているように文法も曖昧で論理的でない。それを日本人がテニハヲを付けて論理的にしたのである。例えば、耳元で囁かれると身に危険が及ぶと云われる『我愛你』の言葉だって、告白にもなるし、我と愛と你のような詩にもなる。

こうして見ると此のエントリーは、日本人が気が付かなかったもう一つの日本の可能性を教えてくれる、考えさせられる内容である。

Re: ちょっと驚いています。

Gcoさんのお話、感銘を受けます。

Gcoさんの定義する宗教が「有限性の否定」であるならば、神道はどうなるのでしょうか?神道において、天国や輪廻など有限性を否定するような思想や概念はあるのでしょうか?(なにぶん、勉強不足もので)

>私が求めるのは自分や他人が「その日」まで笑って生活出来る精神を養うこと。その時にはうろたえずに「向こうで待ってるよ」といって笑って別れられることです。

↑このような精神を養うために、神道は助けになるような気もしますが。たとえば、花鳥風月の心。


DPJ 様、ありがとうございました。

気がつきませんでしたこのページ。(最近の部分ばかりで)
教えていただけて、元気貰ったという感じです。良かった!。

ちょっと心が、澱んでいました。
いや、情けない;;
おかげさまで、此のエントリーと
此処の皆さんの、悟られたコメントで、
気持ちが明るくなれました!!

くっそ~。自分も頑張るぞ~!これから始まるってのに!

本当に、お礼申し上げます。

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