前回からの続きです。
今回も韓国史を検証して、恥を知らない妄想と非常識の韓国人の正体を暴き
たいと思います。
日本は韓国の独立のために中国、ロシアと戦った。しかし朝鮮は最後まで、
王様と官僚達延命のために国家を利用しづけ、自らの手で次々に独立の芽を
摘み取り、徹底して自主独立の意思を持つことがありませんでした。
日本は韓国の近代化の可能性に絶望していました。いくら説得しても言葉が
届かない国でした。権力者達は、王権の制限につながる近代国家の制度をど
うしても受け入れたくなかった。
結果日本は韓国の二枚舌に何回も煮え湯を飲まされ、ほとほと愛想が尽きか
けていました。福沢諭吉は朝鮮改革派の金玉均の暗殺を契機に朝鮮に絶望し
「脱亜入欧」を唱え、朝鮮に関わらない事を提唱しています。
韓国の初代統監に就任した伊藤博文はそのイラツイた心根を次のように語っ
ています。「韓国の進歩は大いに日本の望むところであって、日本は何を苦
しんで韓国を亡ぼすであろうか。自分は実に日韓の親睦を厚くするについて
は自分の真心を貢献しようとしている。しかるに韓国は日清・日露の両大戦
の間、韓国は一体何を為したか。陰謀の他に何をしたか。戦争中は傍観した
だけではないか。諸君は日本がにわかに来たって、韓国を亡ぼすならんと
思うのは果たして何に基づくのか聞きたいものである。日本は韓国の陰謀を
杜絶するため、韓国の外交権を日本に譲れというた。だが日本は韓国を併合
する必要はない。併合は、はなはだやっかいである。韓国は自治を要する」
その伊藤博文が1909年、安重根にハルピン駅で暗殺されます。伊藤博文は
財政的に日本の負担になる併合をする気がなかったが、併合は一進会など韓
国の革命勢力が要請し続けていました。しかし伊藤博文暗殺により欧米列強、
特にイギリスは日韓併合をアジアの平和に取って最条約として支持しました。
日韓併合は国際法上の強制ではありません。日韓併合をヒトラーのチェコ
及びオーストリア併合、ソ連のバルと三国併合や現在起こっているロシアの
クリミア併合と同じにしてはいけない。
日本の韓国併合はイギリスの同盟国として合法的に行われ、国際関係の原則
にのっとり、当時の最善の行動基準に従っておこなわれました。
韓国では、日本の韓国併合を自民族にふりかかった災難という観点だけで
捕らえていますが、当時の国際環境をよく知らなければいけない。今のこの
時代に生きる人の感覚や知識で当時の状況を眺める愚をおかしてはいけない。
当時のアジアは欧米諸国にとって早いもの勝ちの原野にすぎない。有色人種
は人間とは思われていない、すなわち欧米列強の植民地支配は、無制限で
地球の面積のほとんどを白人が支配していたのです。
その中でも韓国は国際社会において国として認められていなかった。日本が
併合するまで続いた李氏朝鮮は血で血を洗う骨肉の争いが絶えることがなく、
民衆は飢餓の線上で500年間も地獄の苦しみを味わったのです。金完燮氏は
著書の中で「李氏朝鮮はあまりにも未開で悲惨だったという事実を知らねば
ならない」と言っています。
また朝鮮紀行を書いた英国夫人のイザベラ・バードは「そのお粗末さはじつ
に形容しがたい。住民は主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。
細い路地は家々から出た糞、尿の汚物で醜い悪臭のする・・・・・」と記述
しています。
欧米人が日本併合時代に触れた文章では、李氏朝鮮の凄まじい堕落ぶりを
痛烈に批判する一方、日本の朝鮮統治を善政とみなしている論者がほとんど
です。
ところが戦後のマスコミや知識人や教師の多くは、「植民地化は帝国主義
国家が冨の収奪を目的として他国の領土に支配権を及ぼす侵略行為であり、
絶対的な悪だ、日本は韓国に対して酷いことをした」と言い続け洗脳してき
たのです。
そもそも、日本の朝鮮統治は欧米のように搾取と収奪が目的の植民地支配
ではありません。欧米の植民地の人民はムチで叩かれ、家畜同然に使われて
人間としての扱いを受けませんでした。
しかし日本の統治は朝鮮と台湾で民衆を苦しめる旧体制を精算し、近代的な
法の統治を実現させ、各地に学校を建設(千以上)、鉄道建設、巨大なダム
を次々作り電力供給、肥料会社を作り農業を発展させ、製紙工場、セメント
工場、紡績工場、病院、その他の重工業を中心に次々大規模工場が建設され、
多くの朝鮮人の雇用を創出するとともに付加価値の高い製品を日本へ輸出す
ることで朝鮮経済を豊かにしました。
30数年間で朝鮮半島につぎ込んだ日本国民の税金は現在の価値で63兆円に
もなり、民間の投資額まで入れると80兆円をはるかに超えると言われていま
す。資源の収奪どころか、日本は逆に朝鮮近代化のために膨大な税金をつぎ
こみました。
この資料を目の前にしても韓国はまだ日本の朝鮮統治を悪と呼びますか?
野獣としてしか生きることの出来なかった李朝時代の朝鮮人は、日本が統治
することによって文明の洗礼を受け、より人間らしい暮らしを享受できたの
です。
しかし多くの韓国人は李朝時代の様相をほとんど教えられる事はありません。
それどころか、李朝時代は極楽のような社会で、誰も彼も豊かに暮らしてい
たなどと、大嘘の妄想の世界を教えています。
韓国は教科書だけでなく「民族独立記念館」を作って、日本の警察が朝鮮人
を拷問している蝋人形を設置しています。韓国の小・中学生はこの記念館に
連れて行かれ、「見ておれない、日本人はこんな残酷な事をしていたのか」
と日本人への憎しみをかきたてます。
今村鞆氏の「歴史民族朝鮮漫談」(昭和3年)には「朝鮮人は日本の両班
取り締まりを感謝したが、下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)
の横暴こそ、その後日本に対する悪感情をうんだ。いかに横暴だったか、
驚くべき事例をたくさん知っており、1冊の本ができる」と述べています。
つまり朝鮮人の補助憲兵や巡査が、日本の権力を借りて今度は宿怨を晴らす
恐ろしいシーンを展開したのです。突然権力を手に入れた平民は舞い上がり
李朝時代の権力者と同じように暴虐の限りを尽くしたのです。
いやはや、日本はとんでもない面倒な国に介入してしまったのです。
(この続きは次回にて)

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前回からの続きです。
前回は韓国人の人格は千年にも及ぶ血と涙の歴史的経緯によって業病となり、
ついに宿痾となって人格障害の韓国人を創った。日本人の常識では理解でき
ない韓国人の深層を知るために今回も韓国史を検証していきます。
前回「日本は負けを覚悟でロシアとの戦争を決意した」と書きました。今回
は少し韓国史を離れて日露戦争について考察してみます。
日本はロシアとは戦争はしたくなかった。日本の指導者は明治天皇をはじめ
として大臣や元老まで誰一人日本は勝つ見込みがないと考えていました。
こういうことを言うと「勝てない戦争をなぜやったか」と言われそうですが、
民族というものは、あるいは国家というものは、勝てないと分かっていても
戦うのです。逃げていてはその場では被害は少なくすみますが、結果精神の
中枢が崩壊していきます。
日本の恐怖は朝鮮半島へのロシアの膨張です。日本は崖淵に追い詰められた。
ロシアは三国干渉で日本から奪い取った遼東半島の突端に位置する旅順港に
小艦隊を派遣してきました。この時の明治政府の焦躁は目を覆わんばかり
でした。
日本がここで戦わなかったならば、真綿で首を絞められるようなことになり、
戦わずに降参することになります。そのとき明治天皇は「もう一度ロシアに
対して交渉してみよ、国民を犠牲にするわけにはいかない、」と言われま
した。
元老筆頭の伊藤博文は「ロシアは何回交渉しても日本を相手にしない。
それどころか満洲と朝鮮で軍隊を増強して、いずれ日本に攻撃をかけてき
ます」と申し上げています。
日露戦争は客観的に見ても大人と子供の戦争でした。ロシアの全兵力約300
万人に対して日本の兵力は約20万人、軍艦約60万トンに対して日本は26万
トンでした。ロシアにとって極東の小国である日本など恐れる必要は何も
なかった。
ロシアのクロパトキン大将は「ロシア軍は日本軍の3倍以上である。来る
べき戦争は単に軍事的散歩に過ぎない」といっています。
この当時の世界は地球の面積のほとんどを白人が支配しており、大多数の
有色人種は奴隷のような境遇に甘んじていたのです。有色人種の主権国家は
全世界で、日本、トルコ、タイ、エチオピアのたった4国しかなかったので
す。当時の世界情勢の過酷さがよくわかっていただけたとおもいます。この
状況下で有色人種である日本が世界の大国ロシアに真っ向から戦いを挑んだ
のです。世界の誰もが狂ったとしか思えないのは当然です。
当時ロシアは日本をアジアの遅れた民族としてしか見ていませんでした。
しかし日本人の文化はすでにロシアをはるかに凌駕していたのです。その
証拠に当時の日本国民の識字率は75%と欧米諸国より圧倒的に高かった。
だから複雑な兵器の取り扱い方法が紙の説明書による伝達が可能であった
ために、軍事訓練のスピードを上げる事が出来たのです。
一方ロシア側は、日露戦争で捕虜となったロシア人の中で自分の名前すら書
く事の出来ない者が過半数もいました。名前が書けても文章が読める人は
幹部クラスだけという現状でした。これは、貴族への教育制度しかない当時
の欧米の識字率の低さがもたらした当然の結果です。
逆にロシアの捕虜となった日本兵の書いた論文が欧米の新聞に紹介されると
一兵卒すら論文が書ける日本の文化度に欧米の識者は驚愕し、その後、貴族
中心の教育制度から、庶民を含めた教育制度への社会改革をもたらしたほど
でした。
これを見ても日本の文化度の高さは当時世界一だったといえます。つまり私
が言いたいのは、ロシアより圧倒的文化度の高い技術立国日本の勝利は歴史
の必然だったということです。
ロシアは戦況の逆転を目指してついに切り札であるバルチック艦隊を日本海
に派遣します。しかし戦闘が始まってわずか30分で大勢は決しました。
日本連合艦隊は一昼夜の戦闘で撃沈19隻、捕獲6隻の大勝利をあげました。
日本側は各艦とも軽傷で沈没は水雷艇3隻のみでした。その沈没した水雷艇
は味方同士の衝突事故です。まさに完勝でした。
世界の海戦史上たった一昼夜の戦闘で大艦隊が壊滅した例はこの日本海海戦
をおいて他にありません。このニュースに接した世界中の人々は驚愕しまし
た。日本をアジアの遅れた野蛮国と見ていたためにその驚きは天地を揺がし、
この日本の勝利にアジアの民衆は熱狂しました。
1902に天津で創刊された清國の「大公報」には黄色人種と白色人種との間
の優劣は天の定めだというふうに書かれています。アジアのほとんどの国は
白人の知能はアジア人よりはるかに上である、白人には永久に勝てないと
信じていたのです。それを日本人は日露戦争での勝利でひっくり返した、
人類の歴史はここから変わったのです。
日露戦争の勝利は有色人種が白人と同等になれた、同じ人間だと証明した
画期的な戦争でした。日本人はもっと誇りを持ってもいいと思います。
さて話を韓国に戻します。
高宗は次々にロシアへ朝鮮内の利権を売り渡し、もはや韓国はロシアの属国
になることは歴然としていました。だから日本は負けを覚悟でロシアに戦い
を挑んだのです。当時韓国にも真面目な人がおり、「一進会」を設立してロ
シア支配を避けるために日本に支援を求めています。
「一進会」は現状の高宗を中心にした両班(官僚)主導では韓国の独立維持
は困難であると訴えて、日露戦争への協力を申し出ています。一進会の会員
は約14万人もおり、生命の危険を感じた高宗はしぶしぶ一進会に従います。
近代化を目指していた一進会の圧力で高宗は日本と第一次日韓協約を結びま
す。ところが一方で日本と合意しながら高宗は日露戦争最中にロシアに密使
を送り、「日韓協約は一進会が勝手に結んだもので不当である」と訴えて
います。
この高宗の二枚舌にロシアは全く相手にしませんでした。この高宗の裏切り
行為は日本側に伝わり、日本は激怒します。日本と協約を結んでおきながら、
日本が必死で戦っているロシアと裏で手を握ろうとしたのです。
日本は日露戦争の勝利でロシアの韓国支配を排除しましたが、国際信義を全
く守らない高宗が実権をもつ韓国ではいつ再びロシアと手を結ぶか分かりま
せん。そこで第二次日韓協約(1905年)を締結して一進会の後押しもあり、
日本は韓国を保護国として、高宗の裏切りを避けるために外交権を把握しま
す。
ところが高宗は再び日本を裏切ります。彼は1907年ハーグの万国平和会議
に密使を送り、日韓協約の不当性を各国代表に訴えましたが、各国とも日本
の立場を理解しており、どの国も相手にしませんでした。
当時の韓国首相である李完用以下、閣僚全員が高宗の勝手な行動に激怒して
皇帝である高宗の退位を迫ります。暗殺を恐れた高宗はついに退位すること
になりました。
日清戦争の際も清と内通し、日露戦争時もロシアと手を結んでいた高宗の
度重なる裏切りに日本は、ほとほとこまりはてます。
(今回は長くなってしまい、申し訳ありません
この続きは次回にて)

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前回よりの続きです。
朝鮮族の愚かさと悲劇を今回も歴史の中で証明したいと思います。
前回は1894年7月、あくまで朝鮮を属国として支配下に置こうとする清に
対して、朝鮮に近代国家を建設してもらいたいと願う日本が、朝鮮の独立
を巡って日清戦争が起こり日本が勝利し、清と下関条約を締結しました。
これにより朝鮮の独立は達成されました。
清の軍隊が日本軍により排除された事によって改革派の金弘集が日本の支援
で近代化を進めます。これを甲午改革といいます。甲午改革とは明治維新を
模範にした改革です。
まず身分制度撤廃、人材登用、司法制度などを土台にして貨幣制度やその他
の近代化に必要な土台作りから始めました。「もしこれが成功していれば
朝鮮はまともな近代国家になっていた」と学者達は言っていますが、私の
見解は違います。
朝鮮人に流れているよどんだ血は少々の改革や、短期間では、朝鮮人の歪ん
だ品性を変えることは到底無理だと判断します。
何故なら、李朝は権力の座にすわったものが、容赦なく人命と人間性に対
する空前の蹂躙を500年間も続けてきたのです。「恨み骨髄にしみる」とい
う言葉がありますが、凄惨を極めた長い歴史が韓国人の体内で堆積し、宿痾
となって現在も狂った言動や行動をとり続けているのです。
韓国の歴史を検証していくと、7世紀前半三国時代まで高句麗は軍事大国で
あり、日本と縁の深い百済は文化大国としてその繁栄を誇っていました。
ところが新羅は進んで唐の属国になり背後から百済と高句麗を攻め滅ぼし朝
鮮半島を中国(唐)に売り渡してしまった。
そしてその後の14世紀に起こった李成桂の裏切りによって李朝が成立します。
このように二つの裏切りによって朝鮮は中国の千年属国としの苦難の歴史を
歩むことになります。
この中国の千年属国によって中国の悪い制度をそっくり導入したために、国
民を際限にまで苦しめ、残虐をほしいままにしました。国民のほとんどは、
長期に渡って、飢餓の線上でもがき、死生の淵をさまよって暮らしてきたの
です。この宿痾を少々の改革で人間性を変えることなど、どう考えても100
年や200年くらいでは、矯正出来るとはとても思われません。
歴史的には日韓併合(1910~1945年)によって李氏朝鮮は終わりをむかえま
したが、それからまだ100年しか経っていません。人間は、最低限度の生活
さえ維持できなくなると、羞恥心が無くなり、社会秩序が保てなくなります。
千年間もこの事態が続けば韓国人の意識構造に異常を招くのは当然な事です。
現代韓国人を作っているものは、恨み、嫉妬、卑怯、利己主義、事大主義、
憎悪、羞恥心の欠如、などによる長い歴史の積み重ねによって出来た歪んだ
人格です。その人格障害を最もよく表しているのが朴槿恵大統領です。
話が少しアサッテに飛んだようです。韓国近代化を進めた甲午改革に戻し
ます。
李氏朝鮮の呪いはそう簡単ではありませんでした。近代化を進める親日派
官僚集団によって専制的権力を奪われた国王・高宗とその妃である閔妃や
両班達は改革政府を徹底的に妨害しました。
その頃日本は日清戦争で手に入れた遼東半島をロシア、ドイツ、フランスの
三国干渉の結果日本は遼東半島の領有権の放棄を強いられました。しかもそ
の後ロシアがここを租借するという屈辱の展開をみせつけられています。
これを見た高宗と閔妃は「日本は所詮大国ロシアにはかなわない」と見て、
彼らはロシアと組んで改革政府を潰します。日本の支援は水疱に帰してしま
いました。つまり李氏朝鮮への逆戻りしたのです。
これでは日清戦争を起こした意味が無くなるどころかロシアが朝鮮を支配し
たら日本が危なくなります。権力を手に入れた高宗の恐妻閔妃は、以前のよ
うに贅沢三昧を維持するためにロシアに全面的にたよります。
高宗の父親である大院君はロシアに国を売る閔妃に危機感を募らせ王宮に数
十人の刺客を送り込み閔妃を暗殺します。資料によればソウルの住民は万歳
を叫んで歓呼したそうです。
韓国の教科書に書かれているように「日本軍が朝鮮人のゴロツキを使って殺
害した」という記述には全く根拠がありません。日本軍はなにも朝鮮人のゴ
ロツキを使わなくても少数の警備隊しか持っていない閔妃を拘束することは
簡単な事です。
閔妃暗殺後、自分も大院君(父親)に暗殺されるのではないかと怯えた高宗
は、情けないことにロシア公使館に逃げ込み保護を求めます。飛んで火に入
る夏の虫、ロシアは大喜びします。
ロシアは高宗を使って金弘集と改革派の4人の大臣を殺害します。有頂天に
なった高宗は皇帝となって国内での改革勢力を徹底的に排除して専制政治
を再び行います。このような父親と息子夫婦との血で血を洗う骨肉の争いは
まさに宿痾であり李氏朝鮮の再現です。
ロシアは思い通りになる高宗を使って着々と日本攻撃の布石を打っていきま
す。高宗は次々とロシアへ朝鮮内の利権を売り渡し、すでに釜山に近い馬山
にはロシア海軍の基地が建設され、ロシアはいつでもどこでも日本攻撃が
可能となり、日本の防衛は風前のともしびとなってきました。
そしてついに負けを覚悟で日本は、世界の大国ロシアとの戦争を決意します。
日露戦争勃発(1904~1905年)です。
続きは次回にて

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前回よりの続きです。
今回も朝鮮史の流れの中で、なぜ韓国は「呪われた国」になってしまったか
を検証していきます。
1392李成桂の裏切りによって出来た李朝は1910年まで518年間にも及びま
した。その間、権力者の暴虐は凄惨を極め、民衆の苦しみは想像を絶するも
のでした。李朝の500年にもわたる忌まわしい歴史が朝鮮族の精神を歪め、
俗に言われている日本人の理解を超えた「煩の民族」を作り上げたのです。
朝鮮は中国式の中央集権制をこの狭い国土で中国以上に徹底させたため、世
界に例を見ない硬直した官僚国家体制を作りあげました。そして驚くべき事
に李氏朝鮮は貨幣を持たなかった。貨幣の無い国家は知的文明が育ちにくい
と考えるのは私の偏見だろうか?
貨幣経済(商品経済)を持たなかったという国が存在したとは、原始社会で
はあるまいし世界史に例がないのではないでしょうか。
そして1860年前後の李氏朝鮮はとっくに経済的に破産し、軍事力もほとん
どなく、政権は分裂と内紛に明け暮れ、崩壊寸前でした。
清からの朝鮮の独立と近代化を日本は願っていました。しかし朝鮮は中華
主義にこり固まっていて、日本は自分より劣位の蛮族以外なにものでもない
との態度で日本の意見に耳をかしませんでした。それでいて清國に対しては
伝統的な臣下の礼をとりつづけ、欧米列強がひたひたと迫っているアジアの
情勢をまるで感じていません。
しかし既にロシアは南下をつづけて朝鮮国境まで領土を広げてきました。
もし朝鮮がロシアに領有されるか、列強に分割されれば、日本の国土防衛は
ほとんど不可能になります。
ちなみに明治維新は1868年です。明治日本は自衛のために朝鮮の清からの
独立と近代化を願って手を貸しましたが、朝鮮はいつまでたっても目が覚め
ません。自国さえ維持できない清に朝鮮を牛耳ったままにさせ、放置して
おけば朝鮮はロシアのものになるか、欧米諸国の草刈り場になるだけです。
そうなれば次は日本が危ない、ロシアは南下を続けて朝鮮国境にまで領土を
広げてきている。そしてウラジオストックに拠点をおくロシアは1885年、
朝鮮から海軍基地として永興湾の提供を受けようとしていました。この行為
に日本は仰天し激怒します。
それまで李氏朝鮮は清國に臣下の礼をとりつづけ、日本からの助言を拒否し
清國への属国状態の維持を堅持しようとしていたはずなのに、強大なロシア
が迫ってくるとヘナヘナとロシアににじり寄る姿勢をみせます。
ことここに至れば、日本は武力を持ってでもカギをこじあけ、朝鮮を独立さ
せ近代化の必要を悟らしめねばならない。
あの時代は、日本海の対岸と東シナ海沿岸の大部分と日本列島の北と南に広
がる主要な島々がことごとく列強の手に陥るのを見て、日本は列強の相互牽
制の隙をついて、同じ土俵で生きる以外に自衛の道はなかった。
ここにいたれば日本は朝鮮から清國の勢力を一掃し、朝鮮を独立国にするた
めの戦争を決意しました。これが日清戦争です。
いいか悪いかの話ではない、明治日本は戦いを恐れて座視すべきだったろ
うか?明治日本の選んだ道以外にいったいどんな道が有ったというので
しょうか。
日本軍約24万人に対して清軍約63万人、欧米列強の見守る中で、大国清に
挑戦する日本の自衛の孤独な戦いでした。列強は日本の敗北を予想していた
が、わずか8ヶ月で大勝しました。日清戦争に勝利した日本は下関条約を
清と結び、朝鮮の独立を認めさせます。
日清戦争は世界の人々に、日本の文明が老廃国中国よりも高く欧米から見て
アジアにはもう一つの中心があることを分からしめました。それまでは中国
よりも文明程度において低いと、欧米から侮られ、後れた国家と見られてい
たのです。
それでは日本と朝鮮を比べて進歩を決定づけた大きな違いとは何なのか?
同時代の徳川300年と李朝500年を比べればその答えは自ずと見えてきます。
つまり朝鮮には西洋や日本を発展に導いた封建制度がなかった。李朝の実情
は封建制度成立以前の極めて幼稚な社会で、自主的に近代的発展が望めるな
どまったく不可能でした。
江戸時代の封建制度では上下の身分が階層的に固定されていて、法を重んじ
る法治社会で、法と法との間の道徳感がよく守られ、規律正しい社会を
作っていました。このような安定した社会が続くことによって経済活動が
発展し、絢爛たる町人文化を開花させたのです。
このように商品経済が発展した江戸時代を通じて、近代資本主義への萌芽が
準備されていったように思われます。
ところが朝鮮には何故か封建制度が育たなかった。李朝では500年間血みど
ろの骨肉の争いが絶えず,そのつど、政策の継続性が断ち切られ、法を無視
し、勝ったものが権力を振るい、暴虐の限りを尽くした。
この歪みきった社会の中で民衆は搾取と収奪の対象にしかされませんでした。
このような環境のもとでは人は生きて行くことだけで精一杯で、日本のよう
に法と道徳に守られた公共の精神が育つはずもなかった。
骨の隋まで腐りきっていた李氏朝鮮では、人間としての道徳や、豊かな庶民
の文化が育つ素地がほとんどありませんでした。
日清戦争は中華中心思想に毒されていた東アジアに風穴をあけました。中華
中心の秩序に服属していれば安全という昔からの惰性の中で千年間も閉じこ
もっていた朝鮮は日本の圧倒的な勝利を目にして、日本がすでにいちだんと
他のアジア諸国より文明的にしのいでいることに衝撃をうけます。
欧米列強は、いがいにも日本の勝利に喝采し、日本に対する彼らの特権を
あいついで放棄しました。朝鮮は初めて日本によって、千年属国から解放さ
れ、独立国となったのです。
続きは次回にて

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