前回よりの続きです。
戦後、我々日本人は、韓国人の「恩を仇で返す」数々の所業を見せられてき
ました。それでも日本は我慢をして韓国に多大な経済・技術・人的援助を
懲りずにやってきました。しかし朴槿恵大統領の恥を知らない告げ口外交に
日本人はやっと目を覚ましたようです。
去年8月から当ブログで韓国人の腐った根性を解明すべく韓国人の知らない
韓国史を年表と多くの資料を検証しながらたどって来ました。
私は、20数年間、韓国で事業を営み韓国社会を見てきました。結果、韓国社
会のどの部分を切り取っても、そのウソの多さに呆れ果て韓国に絶望して
撤退しました。その上韓国では規制があまりにも多くて、公務員と結託しな
い限り事業を立ち上げることも継続することも不可能です。
それと韓国の最大の欠陥は銀行です。銀行は賄賂を出すと貸し付けをしてく
れるが、そうでないとほとんど難しい。銀行の内部まで見えませんが先進国
の銀行が持っているシステムが無いに等しい。当社は住友ソウル支店で別に
問題はありませんが!
もっと酷いことは公認会計士が会計の知識が無い、単に書式手続きの時に必
要なだけで、金をもらって倒産寸前の企業を順調な企業に見せかけて財務諸
表を作成します。そのような能力だけは一流です。
経営者は、他人のカネを踏み倒しても金持ちの生活を続けられる。利益を出
せない企業は借金で延命する。銀行の幹部は不良企業にカネを貸して、コミ
ッションをいただく、行き詰まった銀行の不良債権を政府が金を出して埋め
る。最後は銀行から借りたカネも社員が稼いだカネも、個人の懐に入れて姿
をくらます。
韓国の財務諸表も不良企業と全く同じで、全て作られた数字です。1997年の
アジア通貨危機以降、韓国は何度もドル不足の危機に陥っています。それを
救ってきたのは紛れも無く日本です。ドル(外貨準備高)が急減し、最後に
無くなってしまうことを「経済破綻」と呼びます。
国際収支は残酷です。国際収支が悪化すると世界各国から見捨てられ、自国
通貨が暴落し、ドルが枯渇します。ドルが無くなれば全ての輸入が出来なく
なります。だから国の外貨準備高の数字をふくらませるために海外から借金
しています。
日経新聞の記者は「韓国の外貨準備高は30兆円以上を常にキープしている、
韓国経済は順調である」という記事を数年前に見たことがあります。この記
者は、外貨準備高は海外からの借入金によっても増えることを知らないのだ
ろうか?外国からの借金が増えれば資本収支が黒字になり一見、経済が順調
に推移しているようにみえます。
経済を知らない日経新聞の記事を読んでいる日本のビジネスマンは悲劇です。
2013年韓国の外貨準備高は約35兆円です。しかし対外債務残高は42兆円も
あります。つまり韓国は「純債務国家」なのです。
このようなことを記述すると必ず「日本政府の債務は1000兆円もある」と
反論されます。それでは日本政府は誰からお金を借りているのですか、海外
ではなく国民からです。日本政府の債務(国債)は93%が銀行、個人、保険
会社,郵貯などによって消化されています。その原資は国民の預金(1500兆
円)です。つまり日本政府の債務の債権者は国民なのです。財務省やマスコ
ミは「国民1人当たり約800万円の借金!」と大騒ぎするが、全く逆です。
国民が政府に800万円貸しているのです。海外からお金を借りている韓国と
は問題の種類もレベルも全く違います。
それでは韓国はなぜ日本のように国債(借用書)を発行して国民からお金を
借りることがが出来ないのか、その答えは韓国国内の銀行はお金の余裕が無
いから、政府が発行する国債を買うことが出来ません。韓国人は銀行に貯金
するどころか個人負債残高は年々増え続け、2013年ソウル聯合ニュースに
よれば約90兆円を突破すると書いています。これは個人向け融資よりクレジ
ット販売の焦げ付きが多くなってきているからです。
このように韓国国民の約40%は借金地獄に陥っています。韓国には国民健
康保険も社会福祉制度も皆無です。失業や病気は即、乞食への転落または
死を意味します。
去年夏に、韓国輸出入銀行は切羽詰まって、みずほ銀行から約500億円の緊
急融資を受けています。みずほ銀行も韓国経済の実体を知らないのだろう
か?みずほ銀行殿、大丈夫ですか?
このような国も国民も自転車操業の自国経済を朴槿恵大統領は理解していな
い、恥知らずの朴槿恵は安重根の記念館だけでなく今度は、中国西安に「抗
日部隊記念碑」を要請と言う記事が24日載っていました。
国際常識を全く知らない朴槿恵は日本人から見れば精神異常としか、見えま
せん。このとりつくしまもない反日全開の大統領が自国経済破綻の煙がたて
ば、平然と日本にカネをたかってくることは間違いがありません。
過去日本の対韓外交は「韓国のいうことをそのまま受け止めては裏切られる
ナイーブ日本と、前言を翻して平然と嘘をつく恥じない韓国」という構図を
何度も繰り返してきました。
韓国歴代大統領は反日外交をチラつかせながら日本から援助という名のカネ
を騙し取ってきました。しかし朴槿恵に至ってはあまりにも反日全開で、
その言動に日本人の怒りは沸点に達しています。
しかし心配なのは、韓国が支援を求めてくれば、自民党内部の数名の賄賂に
まみれた大物親韓政治家や、なりすまし日本人の政治家達が、必ず「隣国と
は仲良くしなければ行けない」とか、「アメリカと同盟国である韓国と協調し
ろというアメリカからの圧力あった」だとかの言い訳で日本の税金を投入し
そうです。
このような韓国国内の惨状が日本に一切伝わってきません。おそらくメディ
アに巣食っているなりすまし日本人達が正確な情報を完全に遮断したうえで
巧妙なすり替え情報や偽造が行われていると推測されます。
(今日は韓国史の流れを追わずに、いきなり現実の韓国に飛んでしまいました。
韓国史を追うことにより「韓国病」を分析してきましたが、しかし最近の韓国
記事が目に入り、書かずにおれなくなってしまいました。次回から真面目に
韓国民の民族の歴史が、どこで、どう誤ってきたかを検証していきます)

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前回よりの続きです。
さてモンゴル帝国に深入りしたおかげでいろんなことが見えてきました。
欧米人から見れば似たような顔をした中国人・韓国人・日本人を一括りにし
て彼らは見ていますが、日本人と中国・韓国人とは、文化、制度、イデオロ
ギー、自然環境、飲食物、などによって、まるで違う人間像が出来上がった
のです。
すなわちモンゴルに支配された中国・韓国とモンゴルの侵略を食い止めた
日本とでは全く違う人間が出来上がりました。
中国では、内紛激化したモンゴル帝国が1368にモンゴル高原に引き上げた
後、中国人の明朝が成立します。しかし明朝の中国は昔の唐・宋の時代の中
国ではなく、すべてモンゴル化した中国でした。つまりモンゴル人の血を受
け継いだ中国人です。
明朝の制度は、すべてがモンゴル式でした。飲食物においても各種の肉料理
や、香辛料をつかった味付けや、蒸留酒を飲む習慣などは、モンゴル人が
中国に持ち込んだものです。
それと中国・韓国人と日本人を分けた最大の要因は儒教の朱子学です。朱子
学は南宋の人朱熹が儒教の古典を新解釈して朱子学を作りだしたが、南宋で
は朱子学は公認されませんでした。ところがモンゴル人の元朝がこれを公認
しました。
何故ならモンゴル帝国では、優秀な官僚を手に入れるために科挙の試験を再
開した時、朱子学を出題範囲としました。明朝はこれをそのまま引き継いだ
結果、朱子学が中国の官僚仲間のイデオロギーとなりました。
朝鮮では1388年高麗の司令官であった李成桂が明朝と通じてクーデターを
起こし1392年新たに朝鮮王朝を建国します。このように高麗は外敵と通じ
た裏切り者李成桂によって滅びていきます。
李成桂の創建した李朝は明に臣下の礼をとり、朝鮮は再び中国の属国に成り
下がり徹底的に明にへつらって朝鮮という国名まで選んでもらっています。
李朝は明を天子の国と仰いで、中国社会に最も害毒をもたらした儒教の朱子
学に基づく科挙の試験を取り入れます。朝鮮民衆を500年にわたって際限な
いまでに苦しめ、残虐をほしいままにしてきた権力者ヤンパン(両班)は科挙
の及第者の家系が続いた人たちです。
李朝は千年以上にわたって尊んできた仏教を徹底的に弾圧し、儒教の朱子学
を国学として迎えいれ、おぞましいミニ中国になっていきました。
李朝は700年前に、外国である唐の軍を引き入れて、不意討によって高句麗
と百済を滅亡させた新羅と同じパターンです。朝鮮族はこの二つの民族的反
逆行為によって進んで中国の千年属国になった。結果朝鮮族の民族性を歪め、
今日のような卑怯、利己主義、事大主義、をはびこらし、虚飾と偽善と歪曲
と、おごりに満ちた人間になっていったのです
日本でも儒教の朱子学は江戸幕府の正学となっていますが、なぜ同じ思想で
ありながら中韓と日本ではこうも違ったのか?
朝鮮に伝わった儒教の朱子学は中国と同じように、国家体制を維持するため
の学問として継承され利用され、李氏朝鮮の国家の統治理念として用いられ
た。つまり朝鮮では権力に座った者が、儒教の朱子学の美辞麗句を利用して
暴虐の限りを尽くし、法は権力者によって、好き勝手に用いられ、人命も、
道徳も顧みることがありませんでした。
しかし朱子学の本来の思想は「仁義礼智信」や「君臣の道」「夫婦の道」
「父子の道」「兄弟の道」「朋友の道」などの人間関係を説いた道徳の学門
のはずです。現実の中国社会や李氏朝鮮では単に本に書いてあるだけで、
権力者に都合のいいように利用されました。逆に江戸時代の日本では、
武士階級の師弟のための藩校と、一般庶民のための寺子屋によって儒教を
基礎にして道徳的な人間を創っていきました。
明治維新以降政府は教育を充実させ、四民平等の維新の精神で読み書きそろ
ばんだけでなく、師匠に対する礼儀作法や生活上のしつけまで教えていまし
た。だから日本では、「嘘をつくな」「正直であれ」「思いやりをもて」
「卑怯なことをするな」「約束を守れ」「恥ずかしいことをするな」「恩を
忘れるな」などの人としてのモラルが身についていったのです。
しかし李氏朝鮮は明時代の中国の最も堕落した時代の文化をとり入れ中国
文化の病毒に感染してしまった。幸いにも日本では菅原道真の進言によって
894年に遣唐使が廃止され、それ以降20世紀まで中国とは正式な国交が
存在しなかった。
つまり日本の儒教は堕落した明の儒教ではなく、紀元前5世紀の孔子語録で
ある論語を中心にした思想を学ぶ事によって人格を高めることが出来たので
す。逆に韓国民が病んでしまったのは、このおぞましい深い泥沼のような
中国文化に身を投じたからです。
李氏朝鮮は中国の利己的で、残酷凶暴な政治文化を進んで手本として、中国
という腐敗しきった悪の枢軸の属国となり、明を崇めて「大中華」に対して
「少中華」であることを国の誇りにしてしまった。
そして民衆はいつも飢餓の線上でもがき、生きるためにお互い欺き、騙し合
い、いかなる悪徳非道なことも平気になり、人命も道徳も顧みることがあり
ませんでした。
しかし韓国は国家レベルで500年以上続いたこのおぞましい李氏朝鮮を消し
去り、李氏朝鮮は極楽のような社会で、誰も彼もが豊かで楽しく暮らしてい
た等と、歪曲捏造の度を超えたファンタジーを教えられます。
現代、朴槿恵大統領の「日本は正しい歴史認識を持て」と説教をして回って
いる「告げ口外交」を見ていますと自国の捏造教科書を信じていることは
明らかです。韓国人が人間として立ち直るためには過去の真実の歴史を勇気
を持って明らかにする必要があります。
韓国人はどんなに聞きたくない歴史であってもその事実に目を向け、そして
立ち向かっていかなければならない、いつまでもウソで固めた教科書を信じ
ている姿は、愚かであり滑稽であり、そして同時に哀れとしか言いようが
ありません。
続きは次回にて

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前回よりの続きです。
日本軍の小舟を仕立てた夜襲攻撃を防ぐために、元軍は各船を鎖でつなぎ合
わせて防御しましたが、日本軍は連鎖の敵艦を、ものともせず攻撃を加えま
した。
日本側の思わぬ猛攻に驚いた、東路軍は(高麗軍が主力)軍船を鷹島あたり
まで退却せざるをえませんでした。この弘安の役の緒戦である志賀合戦は約
8日間続けられ、元軍は湾深く侵入することができませんでした。
これらの奮戦ぶりは「蒙古襲来絵師」の解説に生き生きと記述されています。
そしてついに江南軍の先遣隊300隻と東路軍は壱岐で合流しました。東路軍
と江南軍の先遣隊が壱岐に集結したことを知った日本軍は、これを撃滅せん
として壱岐に向かった。敵の大艦隊を発見した日本艦隊はこれに果敢な攻撃
を敢行し、4日間にわたる激戦が展開された。
日本軍の猛攻を支えきれなくなった元軍は、平戸に退却して江南軍の本隊を
待ちます。平戸で集結した東路軍と江南軍本隊は太宰府攻略を目指して鷹島
へと向かいました。海上で合流した蒙古の大艦隊は大海原を覆い隠さんばか
りの大艦隊であったと想像されます。
敵の大船団が鷹島に向かったとの情報を得た日本軍は、敵船団に夜襲を決行
し、猛攻に次ぐ猛攻を加え、元軍に相当の損害を与えました。このため元軍
は艦船の修理、部隊の再編成などに手間取り、博多湾に進撃することが出来
なくて、鷹島に数日間滞留することを余儀なくされました。この数日間の
滞留が日本に幸運をもたらしたようです。
そしてついに1281年7月30日の未明から夜明けにかけて、大型台風が九州
地方を襲った。「元史」によれば「8月1日、風破舟」とわずか3文字で片付
けられていますが、「弘安の役」では神風が本当に襲来したことは間違い
ないようです。
日本の資料で見れば高麗の「東国通鑑」の条には「元軍帰らずもの無慮十万
有幾、我が軍返らず者亦七千余人」と記されています。また「元史」の「日
本伝」には、助かった二、三万の者は虜として日本軍に連れ去られ、蒙古人、
高麗人、漢人はことごとく殺され、南宋人五人は奴とされたが、三人は、か
ろうじて本国に逃げ帰り,十万人のうち帰る事ができたのは、三人のみであ
った記されています。
江南軍の総勢十万のうち帰れたのはたった三人なのに、高麗軍は二万八千の
うち、生還者は一万九千三百人であったと日本資料の高麗史には記述されて
います。不思議に思っていろんな資料を見ていましたら,古賀稔康氏の「海
から甦る元寇」の中に台風を察知した高麗軍が、いち早く平戸島の安全な港
に緊急避難したためである」と書いておられました。しかしなぜ合流した江
南軍が知らず、高麗軍だけが台風を察知でき、緊急避難できたのか疑問が残
ります。
戦いは台風が手を貸したといえ、日本の完全勝利に終わりました。日本遠征
の失敗の報がフビライのもとに伝えられます。フビライが驚き落胆したこと
は言うまでもありません。
全戦全勝の負け知らずの蒙古軍が二度にわたって日本軍に負けたのです。日
本軍の強さと、死をも恐れない勇気を知ったフビライは逆に日本軍が逆襲し
て、くるのではないかと恐れ、中国の海岸線に日本軍の襲来に備えて防備を
命じたほどです。
このフビライの日本軍に対する恐れは、買いかぶり過ぎではなく陸地におい
ても日本軍は最初東路軍が上陸してきた時、高麗軍より人数では劣っていて
も海上に追いやています。
最初の「文永の役」後、再び蒙古軍が来襲することは目に見えていました。
そこで強気の時宗は蒙古軍が再び襲ってくる前に、こちらから先制攻撃を
かけようと提案しています。
時宗は元帝国の本拠地である大都に攻め上るのは無理にしても、蒙古軍の
日本遠征の前線基地である高麗の都・開城に攻め込むつもりでしたが、御家
人たちに反対されてやめています。
蒙古の恫喝に屈しない時宗の勇気ある姿勢が、神武天皇以来一度も外国の侵
略を許したことがないという栄光を守ったのです。
翻って現在を眺めた時、現代中国は、軍事力を誇示した凶暴な蒙古軍そのも
のであり、また現代韓国は蒙古軍の属国になった高麗のように、ひたすら中
国に媚び、中国を利用しようとして逆に利用され、ひどい目に有った高麗
そのものです。
現代日本は、中国や韓国に国を売り渡そうとした売国奴民主党をやっと排除
することができました。そして安倍首相は時宗のように毅然と中国の恫喝に
屈することなく、韓国の愚かで滑稽で下品な告げ口外国にもめげることなく、
凛々しく、誇りを持って日本人の尊厳を守りぬく外交をしてくれています。
続きは次回にて

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韓国人はなぜこれほどひねくれて、根性が汚い民族なのかを解き明かすべく
韓国の歴史をたどってきました。
前回は「元」の支配下に置かれた高麗について検証した結果、必然的に蒙古
襲来について記述しなければならなくなりました。前回は蒙古軍の1回目の
日本攻撃「文永の役」について述べました。今回は2度目の攻撃である
「弘安の役」について検証してみます。
1回目の日本攻撃で蒙古軍は日本武士の死を恐れず突進してくる迫力に脅威
を感じていました。とくに常に前線で戦うことを強要されていた高麗軍は戦
闘状態に入って初めて日本軍が並々ならぬ難敵であることを知ったのです。
フビライにとって日本は東方海上に浮かぶ小国であり、ちょっと威嚇すれば、
直ぐに平伏するにちがいないと軽く考えていました。もちろん朝鮮族(高麗)
も同じように考えていました。
蒙古の忠実な属国になっていた高麗の忠烈王は「元」をバックにして日本に
脅しをかければ日本は恐怖で直ぐになびき、その果実の一部分だけでも手に
入れることが出来ると考えていました。
そのころ高麗は30年以上にわたって蒙古軍の蹂躙に悩まされ、山野は荒廃
し、人民は疲弊の極にありました。だからフビライを焚き付けて日本に目を
向けさすことを考えたのです。
そこでフビライは高麗の進言により、日本を服属させるために元の使者に国
書を持って行かせました。日本は返事を持たせぬままに使者を追い返しまし
た。日本側の対応に激怒したフビライは直ちに1千隻の軍船を造るように高
麗に命令をだしました。
つまり高麗の忠烈王の思惑は完全に外れ、かえって苦労を背負い込むことに
なってしまった。高麗にとっては、その代償はあまりにも大きなものでした。
しかし前線の高麗軍は対馬・壱岐への侵攻の際、将兵、民衆の区別なく残虐
の限りを尽くしたと「勝本町史」に記述されています。
日本人は、このような高麗軍(朝鮮族)の人間とは思えない残虐な行為に激
しい敵愾心を燃やし、いよいよ戦闘意欲をかきたてられた。結果として1回
目の蒙古来襲の進撃を赤坂の線で食い止めることが出来たと書かれています。
蒙古軍にとって日本攻撃の敗北は初めての屈辱でした。フビライは直ちに再
攻撃を決意し、再度使者を送った。決戦の意を固めていた時宗は使わされた
使者を斬首しました。
こうした行為は蒙古にとって最大の侮辱でした。蒙古は当時の世界の大部分
を残忍な方法で征服した、負け知らずの恐るべき民族に日本は最大の侮辱を
あたえたのです。
時宗も多くの日本人も知るよしもなかったろうが、折しもその時、司令官ジ
ュチ率いるモンゴル軍は、はるか西方、ポーランドにまで侵入して、勇猛で
知られたヨーロッパ騎士団の連合軍4万を一瞬にして打ち負かし、一人残ら
ず皆殺しにしていたのです。
文永の役で一番被害を受けたのは高麗でした。しかし高麗には、またもや
千隻の船を直ちに建造するように命令が出されました。朝鮮人は日夜奴隷
のように働かされ、働けなくなったものは情け容赦なく殺されました。
高麗の忠烈王はフビライに高麗の窮状訴えました。「すでに民は木の実・草
の葉を採りて食し、民の苦しみはこの時よりはなはだしきはなし」高麗の血
を吐くような訴えにもフビライは全く聞く耳を持ちませんでした。
1281年5月(弘安4年)機は熟したと見たフビライは、まず朝鮮半島の東路
軍に出撃を命じ、4万の兵を載せた大艦隊は九州目指して出陣した。それと
呼応するように中国南部の海岸でも蒙古と南宋の10万の兵士(江南軍)が
3千5百隻という途方もない数の軍船に乗り出陣した。
一方、これを迎え討つ日本軍は上陸が予想される九州北部に4万人の武士が
頑強な石築地の後方に布陣していた。この石築地は基底部3メートル、上面
2メートル、高さ3メートルほどの台形状に石を積み上げたもので、蒙古軍
攻撃を予想して、延々と20キロにわたって構築されていました。
東路軍は壱岐周辺で江南軍と合流するために10日間ほど待ったが一向に現
れないために業を煮やして江南軍をまたずに博多に向かった。6月6日、東
路軍は博多湾に来襲したが堅固な防塁を見て直ぐに上陸するのを見合わせ
湾口に碇泊した。
蒙古の大艦隊が現れるや、日本の武士は直ちに攻撃を開始、日本側は、前回
の戦闘から得た教訓を十分に活かして、海上で凄まじい戦闘が繰り広げら
れた。
6日の夜、小舟を仕立てて敵船へ夜襲を試みた。日本軍は敵の不意をついて、
敵船に乗り移り、さんざん暴れ回り数百人の敵を斬り殺し、船に火をかけて
引き上げました。
闇の海上より不意に現れる日本の船は、まさに神出鬼没で、突然と乗り込ん
で斬りかかってくる武士に、さすがの蒙古兵も恐怖で為す術がなく、そこで
元軍は各船を鎖でつなぎあわせて日本軍の攻撃を防ぎました。
8日には元軍は志賀島に通ずる海の中道から陸路攻撃が続行されが、豊後の
守護大名大友氏が大将になって元軍に猛攻を加えた。猛攻に圧された元軍
は全軍船に非難しました。
一方蒙古軍の主力である江南軍は東路軍と合流する予定が1ヶ月近く遅れて
いた。日本軍の凄まじい防戦にあった東路軍は、ついに九州の海岸線より中
には侵入することは出来なかった。そこで一旦引いて、後続の江南軍を待つ
ことにしました。
続きは次回にて

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