蒙古襲来の主力は朝鮮族(高麗)   1月29日(水)


前回モンゴル帝国に踏み込んでしまった以上、日本への蒙古大襲来について
検証せざるを得なくなりました。
この蒙古襲来という歴史上日本最大の危機はわずか740年前の出来事です。

13世紀の文明世界の大部分を征服したモンゴルは、極東の小国日本をも支配
せんものと使者を送ってきた。その頃、鎌倉幕府は、北条時宗が執権を握っ
ていたが、彼はこの書状の内容を知ると、怒りのあまりこれを破り捨てまし
た。その時彼は若干18歳でした。

日本側の対応に激怒したフビライは、モンゴル軍の恐れを知らない小生意気
な小国を殲滅しようと属国高麗に対して、直ちに1千隻の軍船を造るように
命令した。

多くの労働者と大量の食料を提供しなければならなくなった高麗の国内は大
混乱に陥った。結果山はハゲ山になり、何十万という数えきれない餓死者を
だした。その上彼らはその船にのって蒙古の兵士として海を渡らねばならな
かった。まさに朝鮮史とは惨めで悲惨そのものです。

1274年10月(文永11年)モンゴル軍は突如対馬に来襲、続いて壱岐島に
上陸した。対馬の守護代の宗助国は80余騎を率いて応戦したが、モングル
軍は既に千余りの兵が上陸しており、勝敗は歴然としていた。

壱岐では守護代平影隆が100余騎を率いて応戦したが400余りのモンゴル兵
に粉砕された。対馬・壱岐に上陸したモンゴル軍は男女子供の区別なく極め
て残酷な殺りくを繰り返し。耳や鼻をそぎ落とし、苦しみもがく様子を楽し
んだと「勝本町史」に記されています。

モンゴル軍に捕らえられた住民は生きながらにして、手に穴を開けられて
数珠つなぎにされ、船べりに吊るされ、住民は生きたままモンゴル軍の矢面
にたたされた。

しかし壱岐島、対馬の人たちは、他国と同じように命乞いなどせず、無抵抗
で殺され凌辱されたわけでもはなく、女も男も勇敢に立ち向かって玉砕しま
した。宋の遺臣・鄭思肖の「心史大義」に「倭人、狼にして死を恐れず、
倭婦、甚だ烈にして犯すべからず」と書いていることで実証できます。

また「東方見聞録」にはモンゴル軍の占領した城は壱岐の城唯一つだけで
あった、この唯一の守兵は最後まで降参しなかったので土地の全人民を殺し
た、と記述されています。

そしてついにモンゴルの大艦隊は博多湾に姿をあらわした。その兵力は3万
5千、戦闘は激戦で一騎打ちが得意な日本の武士はたちまち苦戦におちいっ
た。日本側の死傷者は計りしれず、わずか一日足らずで太宰府あたりまで
後退せねばならなかった。

モンゴル軍と言ってもその主力は高麗軍8千人と南宋軍1万人と、契丹人、
渤海人等の混成軍5千、他に梢工・引海・水手が7千人で残りは各部隊の指
揮をとるモンゴル人です。モンゴル軍の主力部隊は高麗軍で、彼らは常に
前線で真っ先に戦いを強いられていた。

日本に残されている「蒙古襲来絵詞」を見ると襲来した兵士の武具はモン
ゴル軍そのもので、高麗軍の武具ではないために後年、全てモンゴル人と
勘違いしてしまった。

当時、高麗はフビライの女をめとった忠烈王が王位についていた。フビライ
の凶暴さを知り抜いていた忠烈王は元の忠実な属国になる態度を示して、強
制もされないのに自ら辮髪にして胡服をまとい、宮廷の儀礼や用語もモンゴ
ル風に変えていました。

常に最前線で戦わされていた高麗軍は、小馬鹿にしていた日本軍の死をも恐
れない反撃に、前面の高麗軍が次第に崩れはじめ、しだいに後方の宋軍も元
軍もかなり損害を受け、多くの戦死、負傷者を出した。そのために全軍は夜
戦での不利を察して、全員博多湾に浮かぶ軍船に引き上げた。

「幸運にもその夜半暴風雨がにわかに起こり、博多湾に浮かんでいたモンゴ
ル軍の大船団は損壊し沈没した。残った船はすっかり戦意を失いほうほうの
体で朝鮮に逃げ帰った」とほとんどの本に記述されていますが、少し疑問が
残ります。

この夜の暴風雨を日本の歴史では「神風」として戦勝の主因にあげっていま
すが、この日は太陽暦によると11月26日頃となり、台風の時季はとっくに
過ぎていて、台風級の暴風雨があるとは考えられない。「元史」によれば、
台風雨の記述はなくその敗因を「官軍整わず、また矢尽き」と書かれてい
ます。

台風ほどの強力なものではないが風雨があったことは事実のようです。しか
しその風雨が蒙古軍の艦隊のほとんどを沈めてしまったとは、少し無理があ
るように思えます。

元軍は戦いを常に有利に進め、博多まで攻めこみながら、なにもわざわざ
夜討ちを恐れて、全軍が全軍船に一旦引き上げる必要などないはずです。
彼らも日本軍の死をも恐れない戦闘能力の迫力に、脅威を感じた結果であり、
被害も相当受けていたはずです。

ある本によれば「日本はモンゴル軍の強さと凶暴さを知らないゆえに『蒙古
国書』を無視することが出来た」と記述されていますが、当時、日本では南
宋とは貿易が盛んで、多くの国がモンゴル軍によって蹂躙され征服されてい
た事実を承知していました。

日本の商人は幕府の命を受けて、モンゴルの情報を積極的に収集していまし
た。情報により、モンゴルの日本侵攻もありうる、現に高麗は既にモンゴル
の侵攻によって属国化され、モンゴル軍の蹂躙で、田畑は荒廃し、人民は疲
弊の極に達していた情報も入っていました。

結局モンゴル軍の一回目の日本攻撃は、対馬・壱岐島、九州の太宰府周辺を
席巻しただけで終わってしまいました。(1274年文永の役)

続きは次回にて




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世界を創ったモンゴル   1月22日(水)


前回からの続きです。
広大な中国大陸を征服したモンゴルはついに世界征服を計画します。なかで
も最も最も重要とされたのはヨーロッパ征服作戦です。

モンゴル軍はまずウラル山中のブルガル人の国を壊滅させ、さらにノルマン
人諸侯の町々おとし、続いて北コーカサスを征服し、ポーランド王国に入り
レグニツアでポーランド王とドイツ騎士団の最強連合軍を一撃のもとに粉砕
しました。

さらにハンガリー王国を廃墟にし、ついでにオーストリアを踏みにじり、
南方ではクロアチアのアドリア海にまで達しました。

ところがチンギス・ハーンの三男のオゴディ・ハーンが死去すると、モンゴ
ル軍は突然、1242年進軍を中止して東方に引き上げました。しかしチンギス
ハーンの長男であるジョチの次男で総司令官のバトはヴォルガ河畔にとどま
り、自らの宮廷を開きます。その後バト一族は13世紀から18世紀まで500年
間ロシアを支配しました。

チンギス・ハーンが死去したのは1227年、1229年オゴディがトップになり、
ヨーロッパ遠征を開始したのは1236年その後1260年モンゴル帝国のトップ
になったフビライは1271年「元」を建国します。

フビライは北京の地に大都という都市を新たに建設した。大都は征服した
中国人を統治する行政センターでした。中国人といっても漢人ではない、
記録によると、契丹人、女直人、渤海人、高麗人、宋人等です。つまり
モンゴル人やその他の騎馬民族が漢人に同化したのではなく、騎馬民族が
中国人になったのです。

つまり秦や漢時代の中国人は、そのほとんどが大陸からいなくなった、漢民
族は紀元2世紀で地球上からいなくなったのです。いわゆる現在中国人が主
張しているような中国4千年の歴史などはない、中国大陸4千年の歴史なら
理解できます。

ある歴史の本によれば「中国を征服したモンゴル人は頑固にも中国文化に感
化されず独自の文化を築いた」とありますが、当然のことでモンゴル人が影
響を受けるような漢人などはどこにもいなかった。

モンゴル人にとって北京の地はモンゴル高原を中心にしたユーラシア大陸各
地を移動するときの補給基地で永遠に定住する場所ではなかった。このよう
に中国は遊牧民の帝国の一部となった。

モンゴル帝国は多数の領主の集合体で、全体を統治する中央政府はないが、
フビライ・ハンはそれらの領主の筆頭の地位をしめ、元朝の皇帝でした。
フビライは中小都市を直接支配したのではなく、それぞれの都市は、特定の
モンゴル貴族が世襲する所領でした。いわゆる徳川幕府のようなものでした。

それでは、なぜ日本の歴史学者が誤解したのか、それはモンゴル帝国の官職
名が漢字で綴られていたために、元朝があたかも遊牧民が作った中国式の
王朝であると勘違いしてしまった。実際には元朝は純然たる遊牧帝国で、
中国式の要素はほとんどありませんでした。

フビライが統治した中国には、契丹人、女直人、渤海人、高麗人などが入り
混じり言葉がそれぞれ違った、そのためにモンゴル帝国全ての所領で使用で
きる共通の文字が必要になってきました。

フビライはパクパという学僧に新しいモンゴル文字をつくる事を命じました。
このせっかくつくったパクパ文字はやがて消滅していきますが、元朝に支配
されていた高麗がモンゴルに強要されたパクパ文字を自国に持ち帰ります。

朝鮮では高麗朝にかわった李氏朝鮮の時、世宋王がパクパ文字を基礎にして
ハングル文字を作ります。韓国人は「ハングルは朝鮮独自のもので人類が創
造した文字の中で最も優れたものである」と自慢していますが、朝鮮の歴史
やハングルの研究で知られ、コロンビア大学名誉教授であるガリ・レッド
ヤードは、「ハングルは元朝のパスパ文字を参考にして考案された」と言っ
ています。

さて話はアサッテに飛んでしまいましたが、モンゴル人が世界の歴史に果た
した役割は果てしなく大きい、13世紀に全世界に広がり、その大部分を支配
する巨大帝国を打ちたてた。

モンゴル帝国がユーラシア大陸の大部分を統一したことによって、それまで
に存在した国が消滅して、あらためてモンゴル帝国から新しい国々が分かれ
それが基になって、現在のアジアと東ヨーロッパの諸国が生まれてきました。

このように、中国、韓国、パキスタン、インド連邦、カザフスタン、アルメ
ニア、グルジア、ウクライナ、アフガニスタン、イラク、イラン、トルコ、
ロシア、エジプト、北アフリカの諸国に至るまでモンゴル帝国の継承国家で
ないものはありません。まさにモンゴルは世界史を作った民族なのです。

続きは次回にて


(今回モンゴル史に踏み込んだために、我が町の小さな図書館に行き、
モンゴル帝国の資料を探しましたが、目につくのは「蒙古襲来」に関する
書籍ばかりでした。そこでアマゾンで「モンゴル帝国の興亡」岡田英弘氏
の本を購入しました。岡田教授の中国史に関する著書は日本の歴史学者の
中でも一番信用がおける学者だと思っています)



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蒙古軍と朝鮮族(高麗)   1月15日(水)


昨年から続いている韓国シリーズを今年も、少し続けたいと思います。

昨年のブログでは936年高麗王朝の統一から一気に李氏朝鮮まで飛んで
しまったが、470年間続いた高麗王朝時代をもう少し詳しく検証してみます。

993年ころ中国で力をつけた契丹族の帝国・遼が度々高麗に侵入します。そ
の後、女真族の金が遼を滅ぼします。1107年高麗は東北部の辺境で今度は
女真族の攻撃をうけます。ちなみに日本の「源氏物語」の完成は1005年で
す。そして日本では1192年鎌倉幕府が成立して幸いにも初の武家政権が
出来ました。

なぜ武家政権のことを幸いにもと書いたか、それは82年後日本はこれまで経
験したことのない大規模な歴史上始まって以来の未曾有の外国からの侵略を
経験したのです。それが蒙古軍来襲の「文永の役」1274年と1281年の「弘
安の役」です。

ここで凶暴な蒙古軍について記述する必要があります。韓国側の資料によれ
ば「高麗王朝の正規軍であった「三別抄」はモンゴル軍に対して無条件降伏
を拒んで徹底抗戦することを表明し、モンゴルとの戦闘を三年間続けた。
その結果モンゴル軍は日本征服をおよそ7年にわたって延期せざるをえな
かった。この間に、日本軍は北九州沿岸を防御する時間的な余裕を与えられ
た。もしも、1回目の元弘が7年前に行われていたら、日本はモンゴルの
支配の「元」に置かれ、今日の日本もなかった」

この韓国側の記述は全く辻褄が合わない。日本への1回目の蒙古軍来襲は
1274年、その7年前なら1267年ということになる。蒙古が中国を統一し
て元朝を樹立したのは1271年で、1273年に高麗は蒙古軍に服従を申し出
ています。おそらく2回目の弘安の役1281年と勘違いしています。

日本側の資料によれば「蒙古軍の恐るべき残忍さに恐れをなした高麗は、戦
意を喪失して、武器を捨て、いち早く服従を願い出た」と書かれています。

韓国側にしたら蒙古軍と勇敢に3年間も戦ったことにしないと自尊心が保て
無いだろうが、蒙古軍の強さと恐ろしさを知っていればこのような記述は出
来ない。

当時の中国は北方の騎馬民族である「金」と唐の後を支配した「宋」で二分
されていました。「宋」は「金」の攻撃に耐えかねて、首都を放棄して南の
南京に都を移しています。しかしその残忍で強大な「金」でも、ただ一度の
戦いで蒙古軍に敗れて、徹底的な略奪と殺りくの嵐の中で滅んでいます。

チンギス・ハーンの後を継いだフビライ・ハンは南へ逃げ込んだ「宋」を
容赦の無い攻撃を再開,「宋」の首都南京を完膚なきまでに破壊し、350年
続いた宋の王朝を滅亡させています。

ここに至り,二つの強大な国をいとも簡単に滅ぼしたフビライは、中国全土
の都市を完全に廃墟ならしめ、人民は皆殺しにされ、兵士らによる略奪行為
は、いつ果てることもなく続いた。

このような恐ろしい残忍な蒙古軍を横目で見ていた朝鮮族(高麗)が「蒙古
軍に対して無条件降伏を拒んで徹底抗戦することを表明し、蒙古軍との激闘
を三年間続けた」などの記述は疑わしい、日本側の資料にあるように「武器
を捨て、いち早く服属を願い出た」のほうが真実味があります。

もし蒙古軍と戦っていたら朝鮮族は完全に消滅していた、むしろいち早く
属国として恭順したのは賢明だったと言えます。
高麗の名誉のために蒙古軍の恐るべき残酷さとその強さを列記してみます。

広大な中国大陸を征服した蒙古軍フビライは、中国全土の都市を完全に廃墟
ならしめ、人民は皆殺しにして、その広大な土地すべてを空っぽにして踏み
鳴らし、草原化して、家畜を放牧する計画でしたが、部下の進言で道半ばで
思い留まり、南方の国々に侵略の矛先を向けました。

そして怒涛のごとく中東に侵入して、虐殺と略奪を欲しいままにしてヨーロ
ッパに迫った。蒙古軍の通った後は、血祭りにあげられて廃墟と化した無人
の荒野と累々と並ぶ屍の山々だけが残された。

いったん矛先を向けられると最後、都市は壊滅し、住民はひとり残らず恐ろ
しい方法で惨殺された。記録によれば、わずか4つの都市を陥落するごとに
5百万の人間が殺されたと言われています。

しかもその殺し方は、実に残忍なもので、面白半分に矢で射られ、生皮をは
がされ、内臓を引き出され、特に女性に対しては陵辱された挙句に、虫けら
のように殺された。とても筆舌に尽くせない残忍な方法で殺されたと記録
されています。

この残忍な蒙古軍の資料を見たとき、私は支那事変での中国軍のやり方に
そっくりなのに驚かされます。「中国軍は略奪と虐殺を行う野党集団で、
中国軍が通った地は略奪や強姦だけでなく、日本軍に追いかけられるのを
防ぐために道路や橋,灌漑施設、堤防を次々爆破しました。そのために4千
の村が水没し、被害者が600万人以上でました。

蒙古軍も後ろから追いかけられるのを防ぐために住民を皆殺しにしましたが、
中国軍も日本軍の進撃の道をはばもうと全ての道路と自然を次々に破壊して
いきました。支那事変での死者の多くは中国軍隊が中国人を殺したものでし
た。

話は少し横道にそれましたが支那事変における戦闘は大抵の場合、日本軍が
攻めると中国軍が撤退という形で進みました。日本軍は堤防決壊の直後、堤
防の修復作業を行っただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を必死
になって行い、中国住民の救済、治安維持,戦災復興などに取り組みました。

中国民衆は軍隊を野党集団に過ぎないと思っていたが、日本軍の統率が取れ、
略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを彼らは初めて見たのです。
中国人民の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。

つまり私が言いたいことは現代中国人はあの残虐なモンゴル人の子孫だと
いうことです。蒙古軍に血祭りに上げられ壊滅した「宋」で生き残った人々
も「漢人」ではありません。中国人が常に強調する「漢民族」などはすでに
紀元2世紀で地球上から姿を消しています。

話は、だんだん横道にそれますが、中国の歴史が朝鮮と連動しているために、
蒙古に支配される前の中国大陸の歴史を少しお勉強しましよう。

漢民族を絶滅させたのは三国時代です。隋の文帝が中国再統一するまで中国
大陸の混乱は400年も続きました。その結果、戦乱のために農業が出来なく
て、深刻な食料不足になり、中国人の大部分は餓死して、当時の中国の総人
口は、5百万人足らずになってしまったという記録が残されています。

この空白を埋めたのが北方の騎馬民族です。この結果、中国の住民はそっく
り騎馬民族の子孫に入れ替わってしまった。その後、楊堅によって統一され
たのが「隋」(589年-618年)で煬帝の代に朝鮮半島に遠征、大運河建設
によって、国力が低下、李淵が「唐朝」(618年-907年)を建てて帝位に
つきます。

朝鮮半島では新羅が「唐」の軍隊を引き入れて、不意打ちによって高句麗と
百済を滅ぼします。自ら唐の臣下に成り下がる事によって、朝鮮半島を支配
した新羅は9世紀に入ると、権力が弱体化してついに936年高麗朝と交代し
ます。

中国では「唐」の後、「宋」「金」と続き、ついに凶暴なモンゴルが中国全
土を征服して1271年「元朝」を樹立します。こうして、文明世界の大部分
を征服したモンゴルは、海を隔てた極東の国、日本も支配せんものと使者を
送ってきました。


(この続きは次回にて)


(「韓国病」の原因を探るために朝鮮史の旅を続けていますが、深みに
はまって、中国大陸の歴史と日本史まで叙述してしまい後に引けなく
なってしまいました。次回はフビライの命令で日本に攻めてきた高麗に
ついて考察してみます)



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「生きる」     1月7日(火)  平成26年(2014年)


2014年、ついに希望に満ちた日本の夜明けが始まりました。それは「特定
秘密保護法」の通過であり首相の「靖国参拝」でした。

以前の臆病な政府なら腰砕けに終わっていたが、安倍首相は左翼マスコミ
やインチキ文化人の攻撃に屈すること無く毅然として行動しました。
自分の国の国民に敬意を払う首相は結局外国からも信用されるのです。

戦後の左翼思想は単なる流行で、文化人や大学教授は自分に箔をつけるため
に適当にちょっと勉強して左翼のお面をかぶって得意になっていただけで、
それはまるで調子に乗った仮面舞踏会だったのです。

彼らは常に上から目線で「自分たちは国民を教え導いてやっているのだ」と
いう優越感とうぬぼれで左翼風の教えを撒き散らしていました。
しかし最近の中韓の露骨なまでの反日姿勢に以前のままの幼稚な理想主義で
は多数の国民がついて来なくなってきた。

そこで彼らも目立たぬように左翼の仮面をそっと外したものの、優れた思想
を宣伝している選ばれたものであるという自尊心と満足だけはいつまでも味
わっていたい。国民を指導しているという面子だけはぜひとも維持してゆき
たい。

つまり得意でつけていた左翼の仮面を外しても、左翼の習性がそのまま温存
され、大きな正義を無視して小さな欠点をほじくり返して大声でわめきちら
しています。

彼らの習性は常に反権力という姿勢をとります。反権力こそが正義であると
言い、反権力を謳い文句にして生息しています。そして国家を人間を抑圧
する暴力装置と定義しています。

「特定秘密保護法」についても、左翼メディアや評論家達は、左翼の習性で
ある反国家姿勢丸出しで、戦前の治安維持法を無理に結びつけて国民の不安
を煽っていました。朝日新聞などは国民の誰も知らないナチスの全権委任法
まで持ちだして恐怖を演出するしまつ。

「特定秘密」を漏らした人、それを知ろうとした人を厳しく処罰する法律を
つくるのは当たり前のことです。いわゆる「スパイ防止法」です。国や企業
でも情報の漏洩は命取りになります。敵国に囲まれた日本は、情報の迅速,
正確な収集を進めることは最大の防衛であり安全保障です。世界中は情報
合戦を日夜繰り返しているのです。

昔アメリカの元国務長官のキッシンジャーは、「日本では秘密が守られない
ので、重要な機密情報は伝えられない」と言っていました。同盟関係のアメ
リカだけでなく、味方である他国が「秘密を守れない国」だと分かれば、
100%秘密を渡してくれません。当たり前のことです。

国を守る「公」より「私」を優先する「反日本」の文化人、朝日新聞、左翼
議員、テレビ評論家たちは、もはや国際感覚をまるで失った大馬鹿者たち
です。





(韓国シリーズの続きは次回にさせていただきます)

(去年の暮れ、落ち葉と木切れを集めて焚き火をしました。それを見た妻は
さつま芋を台所から持ってきましたが、その時はすでに火が消えそうになっ
ていました。もう一度火を起こすために消し炭を集めてその上に新聞紙を乗
せて木切れを補充して再び焚き火をしました。

消し炭をほっておけば火も消えてしまうが、その上に燃えやすい新聞紙を
乗せれば火は生き返ります。今の日本です。ろうそくの火も数本よれば明る
く、元気づきます。

今年は正しく知り、正しく信じ、正しく行い、かくして、歩一歩、明るい
日本に、皆様とともに向かいたいと思います。)




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