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日露戦争開戦の決意 近現代史の旅NO13 6月29日(金)


近現代史の旅13回目です。明治38年5月28日、日本海海戦で日本は
大勝利しました。野球で言うならまさにパーフェクトゲームです。

完全試合は日本のプロ野球ではこれまで15回記録されています。しかし
艦隊と艦隊の海戦での完全試合は後にも先にも日本海海戦だけです。

当時のロンドン・タイムズという世界的な大新聞に次のような社説が載り
ました。「日本海において日本の海軍とロシアのバルチック艦隊とが
戦った。一方のロシアのバルチック艦隊は全滅である。これに対して日本
はほとんど無傷である」

さらにタイムズは「この日本の大勝利はどこに原因があるかというと、
日本の海軍の軍艦が優秀でも、大砲が優秀でも、戦術が実に巧みであった
のでもない。実にかかってそれは精神力の差であった」と書いています。

さらに驚いた事にタイムズは「日本人の支柱である大和魂がロシアの海軍
の兵隊たちより突出して優れていた。大和魂というのは、日本人が数百年
かかって育ててきた武士道である」とタイムズは説明しています。

当時のロンドンの新聞がここまで日本人の精神を知っていることに驚か
されます。おそらくアーネスト・サトウの回想録の影響ではないかと推測
します。

アーネスト・サトウ(1843~1929年)は イギリス人の通訳官および外交
官として日本に累計で約25年間滞在しております。アーネスト・サトウの
「サトウ」は 日本人名「佐藤」とよく間違えられますが 本名が
Ernest Mason Satowで、生粋のイギリス人です 

もう一人、明治の日本を浮き彫りにした貴重な記録を残した人がいます。
英国の博物学者リチャード・ゴードン・スミス(1858~1918)です。
スミスは1898年に来日し、主に神戸で暮らした。少なくとも1915年まで
日本におり、その後帰国したらしい。この間、英国で『日本の昔話と伝説』
を著しています。しかし彼の関心は次第に物から日本人の精神生活へと
移る。昔話と共にそれを象徴するのが日露戦争に関する記述です。

彼は「戦時下の日本人の行動は模範的で、人々には愛国心、静かながらも
勇気のある気力などが驚くほど満ち溢れている。これが「サムライ」であり、
「大和魂」と呼んでいるものであろう」と日本人の特質を客観的に述べて
います。また彼は「『愛国心と武士道』、この二つが日本人を理解する上で
もっとも重要な要素であり、天皇崇拝にもとづいた精神は、ヨーロッパと
根本的に異なる」と記述しています。

話を元の軌道に戻します。
日本はロシアと戦争はしたくなかった。日本の指導者は明治天皇をはじめ
として大臣や元老まで誰一人日本は勝つ見込みがないと考えていました。

日本陸軍の最高責任者である山県有朋は負けを覚悟していました。彼は伊藤
博文に「伊藤、お前は文官である。だからわしと同じように腹をかき切って
責任を負うわけにはいかない。われわれ軍人はまだ死ねば済む。負けた日本
人4千万人はロシア人によって奴隷のようにこき使われ、辱めを受けるで
あろう、その中で一人屋台骨を支えなくてはならぬ、敗戦のどん底から日本
を再建させてくれ、伊藤お前しかいない」と言う言葉を残しています。

特に陸軍は勝つ自信がなかった。こういうことを言うと今の日本国民は勝て
ない戦争をなぜやったのかと言いますが、民族というものは、あるいは国家
というものは、勝てないと分かっていても戦うのです。出来立ての明治政府
の最大の国家目標は欧米列強の植民地にならないことでした。そのために
戦ったのです。

旅順の攻撃などは命をゴミのように捨てて突撃の連続です。第1回の攻撃
で4千人以上の死傷者がでた。それでもめげずに攻撃をくりかえし合計2万
数千人の人が死傷しました。国を守るためにみな命を捨てていったのです。

そのご先祖さまがあったから、ロシアに蹂躙されずに、現在、私たちは
幸せな生活を送ることができるのです。

明治37年の1月12日、日露戦争が始まる1ヶ月前、再度の御前会議が
行われた。御前会議では、もうここまでであります。日本がここで戦わ
なかったならば、真綿で首を絞められるようなことになり、戦わずに降参
することになります。そのとき明治天皇は「もう一度ロシアに対して催促
してみよ、国民を犠牲にするわけにはいかない、だから平和裏に交渉をして
みたらどうか」と言われました。

元老筆頭の伊藤博文は「ロシアは何回交渉しても日本を相手にしない。
それどころか満洲,と朝鮮で軍隊を増強して、いずれ日本に攻撃をかけて
きます」と申し上げました。明治天皇はその頃、「いくすえは、いかに
なるかとあかつきのめざめめざめに世をおもうかな」と歌われていました。

つまり日本はロシアと戦わなければならないようである。もし負けたなら
ば皇祖皇宗に対し、日本国民に対してなんといって朕はお詫びをしたらい
いのかわからない。そう考えると夜も眠れない。知らぬ間に夜はあけて
いったという意味です。

海軍はパーフェクトの勝利ですが、陸軍はロシアの新兵器 機関銃を前に
多大の犠牲をはらいました。それでもロシア軍との激戦に勝利を得ました。
この不利な状況を勝ち抜くことが出来たのは、明治天皇を中心に日本の
リーダーたちが一致団結した。それから軍隊が全員命を捨てて戦う覚悟を
したことです。

軍隊だけが戦争をするのではない、日本国民が全員で戦ったから勝ったの
です。国民が自分の国を守る意識がなかったら、いかなる国でも滅んで
しまいます。

話は飛びますが、尖閣問題で領海を侵犯されても、国家の主権を脅かされ
ても政治家は何も感じない、悔しいとも思わない。ロシアから日本を命懸
けで守った明治のリーダーたちには考えられないのではないでしょうか。

幸いなことに東京都の石原慎太郎知事が表明した尖閣諸島の購入計画の
寄附金が、12億円を超えたそうであり、4月27日の寄附金口座開設から
約1ヶ月余りで10億円の寄附金が集まったことは、日本精神は今だ健在だ
と認識しました。次回の選挙で「なりすまし日本人」さえ排除できれば
日本の未来は明るいです。

しかし最近の財界には頭のおかしい人がいて平気で日本を売ります。
元伊藤忠の丹羽駐中国大使が、英紙フィナンシャル・タイムズのインタ
ビューで、都による尖閣購入計画について「実行されれば日中関係に重大な
危機をもたらすことになる」と述べたそうで、まるで中国側に立った発言
をしています。

ブログで私が何回も主張していることは、歴史を知るということは出来事
だけを今の感覚で捉えるのではなく、その時代に戻って、その時代の精神と
いうものがどうであったか、その時代の世界情勢はどうであったかを、その
世界における日本人の位置を学んで、そこから歴史を探っていかなければ
真実はみえてきません。

(今日も相変わらずアサッテに飛びました。次回もお付き合いください)




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日本海海戦  近現代史の旅、NO12    6月27日(水)


近現代史の旅 12回目。当時文明国と自認している国は、英、米、独
伊、露、オランダ、仏、などの国がお互い文明国と認め合っていました。
しかし声を大にして言いたい、これらの欧米列強の国より日本の方が
はるかに文明国でした。

前回でも指摘したように当時の日本の識字率は75%と欧米諸国より教養・
文化において圧倒的に上でした。日本は江戸時代に既に自然発生的に寺子
屋があり武士階級の子弟のための藩校が並立して存在していました。

つまり日本は江戸時代からすでに世界一の教育立国だったのです。
明治政府は一挙に近代学校制度を作り上げようと江戸時代から続いて
いる寺子屋を小学校に転換しました。その数はわずか数年で2万6千ほど
の小学校を設置しました。

明治19年(1886年)に具体的な義務教育規定が出され明治43年(1910)
には100%に近い数字を示し、小学校の普及はすでにほぼ完了しました。
このようなすごい教育立国の国は日本だけです。文明国と自認している
欧米諸国が裸足で逃げ出すくらい日本は教育度の高い国だったのです。

フランスやドイツやイギリスなどのヨーロッパ諸国での教育の格差は階級
格差のせいです。現在でもなおエリート階級、中間実務者階級、労働階級
でハッキリと区別しています。現在も続いているヨーロッパ没落の最大
の原因の一つです。

文明国を自認するヨーロッパ諸国は、彼らだけに通じる国際法の下で
平等な関係を結んでいました。彼らはその国際法のなかで、国家という
ものを、文明人の国、野蛮な国、未開人の国の三種類に分類していました。

彼らは日本国を野蛮人の国として扱い、まだ対等な関係を結ぶほど政治
的に、或いは文化的に成熟していないと考えていました。

日本はヨーロッパからあまりにも遠すぎた、そのために誰も日本国の事を
知らなさすぎた。日本と戦って負けたロシアも日本を野蛮国として舐めき
っていました。だから前回のブログで日本が勝ったのは歴史の必然だと
書いたのです。教育立国であり技術立国である日本に野蛮なロシアが
敗れるのが当然の成り行きです。

アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」という本があります。
1862年(文久2)に江戸に来て、1869(明治二年)にイギリスに帰国
するまでの回想録です。この回想録によってイギリスのトップ層は日本の
ことを非常に文化度の高い国であり、礼儀正しく信用できる民族として
認識していました。

日英同盟は「ロシアを牽制するために日本を将棋の駒として使った」と
歴史書には書かれていますが、過去一度も他の国と対等の同盟を結んだ事
がない誇り高い超大国のイギリスが極東の野蛮国と言われている日本と
同盟を結ぶなど普通では絶対に有り得ないことなのです。

英国はアーネスト・サトウの回想録や過去の戦いの経験から、日本を同盟
国にふさわしい国だと評価していたからだと思われます。つまり日本は
野蛮国ではなくヨーロッパに引けを取らない文化度の高い国だと認知して
いたからです。

しかし日本を知らないロシアは日本を野蛮国だとなめきっていました。
ロシアは日本をまったく恐れていなかった。ロシア皇帝は日本を猿呼ば
わりして、日本の挑戦をむしろ喜んだくらいです。

ところが日本軍は意外に強かった、日本とロシアの戦場は中国大陸の満洲
です。満洲は日本と海を隔てているために陸軍の兵士は海を渡って戦場に
行くことになります。一方ロシアは旅順に本拠地を、ウラジオストクに
太平洋艦隊を置いています。

日本海軍はまずそのロシア太平洋艦隊を撃滅しないと勝利へのみちは開け
ないが、ロシア太平洋艦隊は旅順港の港内からなかなか出ようとしなかっ
た。ロシアはバルチック艦隊の到着を待って一気に殲滅する作戦です。

極東のロシア艦隊は旅順の主力艦隊のほかにウラジオストクにも巡洋艦
数隻と水雷艇17隻からなる小艦隊がありました。この艦隊は日本の輸送船
や商戦を狙い撃ちし、日本の沿岸を我がもの顔で動き回り、東京湾口に
まで出没して日本国を舐めきっていました。

しかし開戦から半年経っても補捉ができず、敵を捕らまえられない上村
第2艦隊への非難を大新聞は大々的に報道しました。しかし上村艦隊も
隊員も一言も言い訳せずじっとウラジオ艦隊を撃滅する機会を待ってい
ました。

東郷平八郎率いる連合艦隊主力が黄海でロシア艦隊と砲撃戦をしている
とき、上村第2艦隊は日本海を北上していた。ウラジオ艦隊がロシア旅順
艦隊を援護するために必ず日本海に現れると読んでいたからです。

上村中将の予想通り、ウラジオ艦隊は朝鮮半島の蔚山沖に現れた。砲撃
戦を展開、やがてウラジオ艦隊の3隻が火災を起こし、戦場離脱を始め
た。戦闘はスピードで勝る日本艦隊が優勢で、次々と火炎と黒煙を上げ始
めた。そのうちの一隻であるリューリック号が沈没、漂流する大半の乗組
員は上村中将の命令で日本艦に救出されました。

民間の商船などを沈められ救出もされなかった恨みを超えて 救助に力
を注いだ上村中将の行動は直ちに全世界に報道され称賛の的となった。
(乗組員872名のうち627名を救出)

戦況の逆転をめざしてついに切り札であるバルチック艦隊を極東に派遣。
バルト海の艦隊を3万キロも離れた極東に派遣する目的は、旅順の第一
太平洋艦隊と合流して日本海の制海権を奪い返し、満州の日本軍への
補給を途絶えさせることにありました。

しかし戦闘が始まってわずか30分で大勢は決しました。バルチック艦隊の
主力艦のほとんどが火災を起こしていました。後年「必殺の丁字戦法」に
ついて語られますが、むしろバルチック艦隊の目の前で回頭に成功した
日本海軍の高速化にも言及すべきです。

宮原式エンジンによって艦船のスピードは世界最高でした。それと連合艦
隊が使用していた伊集院信管と下瀬火薬の威力でもありました。

ロシア艦隊は次々と炎上、東郷長官は各戦隊に砲撃中止を命じた。そして
主力に代わって夜の海の出撃したのが駆逐艦と水雷艇隊でした。各艦艇は
次々と魚雷を打ち込み、敵艦隊にとどめを刺しました。

連合艦隊は一昼夜の戦闘で撃沈19隻、捕獲6隻の大勝利をあげました。
日本側は各艦とも軽傷で沈没は水雷艇3隻のみでした。その沈没した水雷
艇は味方同士の衝突事故です。まさに完勝でした。

世界の海戦史上たった一昼夜の戦闘で大艦隊が壊滅した例はこの日本海
海戦をおいて他にありません。このニュースに接した世界中の人々は驚愕
しました。日本をアジアの遅れた野蛮国と見ていたためにその驚きは天地
を揺がし、この日本の勝利にアジアの民衆は熱狂しました。

全ての虐げられた民衆の目覚めは日本のロシアに対する勝利から始まり
ました。世界中の国民が夢想だにしなかった事を日本はやり遂げたのです。
日露戦争は野蛮人と称された虐げられた民衆を勇気づけ、新しい夢を与
える歴史的な夜明けでした。

(続きは次回にて)



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日露戦争斜め論  近現代史NO11   6月25日(月)


近現代史の旅 11回目です。徳川幕府を倒し新しい政府を打ち立てた
維新の志士達は、富国強兵・殖産興業を合い言葉に近代国家を目指して
新しい国作りを始めました。

明治政府の国家目標は欧米列強の植民地にならないことでした。当時の
日本を取り巻く地域はすでにほとんど欧米の植民地にされていました。
このことを常に踏まえて日本の行動を見なければ日本の行動を理解できな
くなってしまいます。

今の時代に生きる人の感覚で当時の歴史を眺める愚を侵してはならないと
いうことです。つまり当時の国際情勢と日本の置かれている状況を前提に
して検証しなければ何も見えてきません。

国際社会に参入した明治政府は、東アジア世界の中でどのように歩み、
そしてロシアとの戦争を始めるに至ったのか、そして日本の勝利が人類の
歴史に偉大なる影響を与え,人類の歴史を画期的に大転換させたのです。

日本の勝利は「全人類の歴史をコペルニクス的に大転換させた」などの
記述を見れば、なんと「大げさな」と思うのは今の時代の感覚で見るから
です。当時は白人だけが人間であって、黒人や黄色人種は人間にあらずと
考えたのが世界の常識でした。

清国の「大公報」には黄色人種と白色人種との間の優劣は天の定めだと
いうふうに書かれています。アジアのほとんどの国は白人の知能能力は
アジア人よりはるかに上である、白人には永久に勝てないと信じていた
のです。

それを日本人は日露戦争での勝利でひっくり返した、人類の歴史はここか
ら変わったのです。

日露戦争直前のロシア側の日本への認識を書いてみます。
「日本軍がヨーロッパの最弱小国に太刀打ち出来るまでには、数十年、
おそらく100年はかかるであろう」陸軍武官ゲ・バノフスキー中佐

「ロシア軍は日本軍の3倍以上である。来るべき戦争は単に軍事的散歩
に過ぎない」クロパトキン大将

「小猿があえて朕に戦争を仕掛けるなぞと、一瞬たりとも想像出来ない。
帽子の一振りでかたづけてしまうさ」ツアー・ニコライ皇帝

「我々に対する日本の戦争は日本にとって自殺行為であろう。彼らの希望
の全ての破壊となろう」ノボエ・ボレミヤ紙

「日本海軍は外国から艦艇を購入し、物質的装備だけは整えた。しかし
海軍軍人としての精神は到底われわれには及ばない。さらに軍艦の操縦
や運用に至っては極めて幼稚である」巡洋艦アスコリッド艦長

このように、ロシアは「人種的優越感」から日本人をことごとく蔑視して
いたことがよくわかります。何もロシア人だけでなく他の白人も有色人種
も同じように考えていました。同時に日本側の多くの将校も到底戦争は
勝ち目がないと考えていました。しかし当時のアジアの環境では戦争回避
の道はありませんでした。

日露戦争は客観的に見ても大人と子供の戦争でロシアの全兵力約300万人
に対して日本の兵力は約20万人、軍艦約60万トンに対して日本は26万
トンでした。

それでは何故、ナポレオンでさえ敗退させた世界屈指の大国ロシアに対し
て極東の小国日本が勝利出来たのか、それは単なる幸運だけではありま
せん。私の見解は日露戦争の勝利は必然の勝利だったと見ています。

当時世界一のバルチック艦隊と戦った日本海海戦では史上稀に見る一方的
大勝利でした。バルチック艦隊は戦力の大半を1回の海戦でうしなったが、
日本の損害は水雷艇3隻のみという信じられない大勝利でした。

この日本海海戦の勝利を作戦の妙であると解説していますが、私の見立て
は技術力の差であるとあえて断言します。

「技術力の差」などと言えば袋たたきにあいそうですが、日本海の作戦
を可能にしたのは、日本海軍の高速化によります。「宮原式」の性能と
言ってもあまり知られていませんが、当時日本艦隊の船のスピードは
世界最高でした。この世界最高のエンジンを発明したのが、海軍の宮原
二郎です。

宮原式エンジンは価格も安く、給水が楽で、掃除も楽、エネルギー効率が
高く、馬力が強い、小型なので、スペースをとらない。明治30年イギリス
に特許を申請しました。この技術力に同盟国のイギリスが驚嘆しました。
これが日本海軍の高速化をもたらし、ロシアを驚かせた日本海海戦の
作戦を可能にしたのです。

現在世界のハイテク製品の部品、資材、工作機械などの、いわゆる資本財
の約80%が日本製であるように、「技術立国」日本の萌芽はすでに100年
前から存在していたのです。

例えばアメリカの自動車産業の技術を、日本の機械工業に完全に依存して
いますが、これは「国際分業」などと呼べるレベルでなく、もはやその
技術が日本にしかない状況なのです。

ロシアが日本を東洋の遅れた民族としてしか見ていなかったが、日本人の
文化はすでにロシアをはるかに凌駕していたのです。その証拠に当時の
日本国民の識字率は75%と欧米諸国より圧倒的に高かった。だから複雑な
兵器の取り扱い方法が紙の説明書による伝達が可能であったために、訓練
のスピードを上げる事が出来たのです。

一方ロシア側は、日露戦争で捕虜となったロシア人の中で自分の名前すら
書く事の出来ない者が過半数もいました。名前が書けても文章が読める
人は幹部クラスだけだという現状でした。これは、貴族への教育制度しか
ない当時の欧米の識字率の低さがもたらした当然の結果です。

逆にロシアの捕虜となった日本兵の書いた論文が欧米の新聞に紹介される
と一兵卒すら論文が書ける日本の文化度に欧米の識者は驚愕し、その後
貴族中心の教育制度から、庶民を含めた教育制度への社会改革をもたら
したほどでした。

これを見ても日本の文化度の高さは当時世界一だったといえます。つまり
私が言いたいのは、ロシアより圧倒的文化度の高い技術立国日本の勝利は
歴史の必然だったということです。


(今日は日露戦争を少し斜めから検証しました。
次回もこのような「斜め論」を展開してみたいと思います)



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日露戦争の衝撃 近現代史の旅 NO10  6月21日(金)


近現代史の旅 10回目です。まさかここまで続けるつもりはありません
でした。なるべく詳しく当時の状況を若い人に知ってもらいたくて、知ら
ぬまにここまできました。

この近現代史にたいする私の思いは、狂った日教組の先生たちが明治の
日本を出来立ての弱い国ではなく、欧米列強と同じに様に最初から「悪し
き帝国」として子供たちを教育していることに怒りを覚えたからです。

私は学者ではないので、話があい前後し、時々アサッテに飛んでしまい
ますが、今日は日露戦争について検証したいと思います。

日露戦争(1904年~1905年)は日本という誰も知らない極東の小国を
世界国家に変え、短期間に世界の「五大国」なった稀有の戦争でした。

日露戦争は有色人種が白人に勝利した、人類史上はじめての近代戦争です。
日本はアジア対白人の戦争形態にはせず、どこまでも二国間戦争の形式を
固執したためにイギリスやアメリカからの資金援助を可能にしました。

日英同盟はやがて日本がロシアと戦うことを想定して結ばれた同盟です。
日英同盟の内容はどちらかが交戦に至った場合は、同盟国は中立を守るこ
とで、さらに二国以上との交戦となった場合には締結国を助けて参戦する
ことを義務づけています。

日本は単独で対露戦争に臨む方針をイギリスに伝えています。イギリスは
好意的中立を約束しました。単独で参戦するために貧しい日本はイギリス
に多大の資金援助を頼みました。

イギリス議会の一部では日本の無謀な勝ち目のない挑戦を懸念して、多大
な資金援助は無駄である控えるべきだという声がありましたが、日英同盟
は日本が声をかけたのではなくイギリスが日本を選んだ手前、資金援助だ
けでなく諜報活動でも日本を助けるべきだという声が圧倒しました。

当時イギリスは世界一の超大国ですが、そのイギリスがロシアと正面から
戦って勝てるかどうかわからないくらいロシアも強国でした。その大国
ロシアに日本は単独で戦うのです。世界中の誰が考えても日本の負けは
歴然としていました。

ロシアは義和団事件を機に満洲と内モンゴルを保護領化し、清国に派兵
した軍を撤兵させず、朝鮮国境に砲台を建設し、シベリア鉄道で軍の輸送
を開始する始末。その上日清戦争の勝利で日本が中国から租借した遼東半
島を三国干渉で奪い取り、軍隊を満洲のみならず、朝鮮半島にまで送り
込んだのです。

ここで日清戦争を思い返してください。日本の恐怖は朝鮮半島へのロシア
の膨張です。朝鮮半島を属国化していた清国に朝鮮の内政改革の共同申し
入れを求めたが、清国は拒否した。

しかしこのままいけば内政がボロボロの李朝はロシアの餌食になるのは
目に見えています。もし半島がロシアに領有されれば日本の国土防衛
そのものがほとんど不可能になる。

だから日清戦争で清国を排除し、朝鮮を独立国にするために戦争をしたの
です。つまり日清戦争も南下するロシアの脅威をなくす為に、李朝を
独立させた戦いでした。

ところが日本の苦心惨憺の思いをロシアはことごとく壊してきました。

日本は崖っぷちに追い詰められた。ロシアは日本から奪い取った遼東半島
の突端に位置する旅順港に大艦隊を派遣してきました。この時の明治政府
の焦躁は目を覆わんばかりでした。

日本は日英同盟の存在がロシアのスピードを遅らせると期待したが全く
効果もなく1904年旅順艦隊出動の報を受け御前会議で対露国交断絶を
決め、宣戦を布告した。

ロシアにとって極東の小国である日本など恐れる必要は何もなかった。
そして中国に介入した西欧諸国の中でいぜんとしてイギリスとロシアは
最大の力と利権をもっていました。しかしイギリスは遅れてきた帝国で
あるドイツとアフリカや中近東で激しいつばぜり合いを繰り広げ、中国
まで手がまわりません。

その間隙をぬってロシアは中国への触手を伸ばしてきました。つまり
ロシアは、たとえ日英同盟を結んでいてもイギリスは日本と共同して
ロシアに向かってくることはないと読んでいたのです。イギリスは勢力
を広げすぎて少し疲れていました。しかしロシアにこのまま中国での
利権を拡大させるわけにはいかない。

だからイギリスはロシアを牽制するために極東での最も信頼のおける
日本と日英同盟を締結したのです。ロシアを食い止める事が出来るのは
新興の大日本帝国以外はないと思っていました。

イギリスは薩英・下関戦争や義和団事件で日本人の勇気と叡智と礼儀正し
く信用がおける民族であることをよく知っていました。ロシアは日本人を
生意気で野蛮な黄色人種として舐めきっていました。有色人種など、豚や
馬と同じなのだから、我々に飼育されるのが当然だなどと公言してい
ました。

しかしまさか、その日本が一国で我が大国ロシアに戦いを挑むなど完全に
馬鹿にしていました。

日本は一国で戦うとイギリスに通達した。イギリスはそれを見て日本人の
勇気と誇り高い民族にあらためて感動し全面的に支援を約束しましたが、
100%勝ち目はないと思っていました。イギリスだけでなく世界中の人達
は、勝ち目のない戦いに挑む日本人は狂ったとしか思っていませんでした。

この当時の世界は地球の面積のほとんどを白人が支配しており、大多数の
有色人種は奴隷のような境遇に甘んじていたのです。有色人種の主権国家
は全世界で、日本、トルコ、タイ、エチオピアの4国しかなかったのです。

当時の世界情勢の過酷さがよくわかっていただけたとおもいます。この
状況下で有色人種である日本が世界の大国ロシアに真っ向から戦いを
挑んだのです。世界の誰もが狂ったとしか思えないのは当然です。

その狂ったとしか思えない日本が白人国家である世界の大国ロシアに
挑戦し、これを見事に打ち負かした事実は世界中を驚かせました。
単に驚かせたという言葉では表現できないほど信じられない衝撃的な
事件だったのです。

日露戦争は有色人種が白人と同等になれた、同じ人間だと証明した画期的
な戦争でした。日本人はもっと誇りを持ってもいいと思います。


(次回も日露戦争を続けます)



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「臥薪嘗胆」  近現代史の旅 NO9   6月20日(水)


近現代史の旅 9回目です。私が今回の歴史の旅で強調したかった事は
当時の世界は、白人達が地球の隅々にまで隙あらば手に入れようとした
弱肉強食の世界であったということを前提に思考しなければ真実が見え
ないということです。

そして日本はアジアの端っこにある黄色人種だということです。白人から
見れば日本など植民地にして当然であり、早い者勝ちの領土なのです。

それなのに日本だけが白人の毒牙から逃れることができ、しかも明治維新
からわずか36年でロシアを破って世界強国の仲間入りが出来たなど
まさに奇跡の国です。

この奇跡の国に幸運をもたらしたのはイギリスであったと近現代史の旅で
何回も強調してきました。しかし誤解してはいけない、もし他のアジアの
何処かの国がイギリスの好意を受け同盟を結んでくれたとしても、日本の
ように強国になったか、そのようなことは100%有り得ません。

日本の近代化は2000年の日本歴史の積み重ねという土台があったからです。
そしてイギリスは薩英戦争・下関戦争をへて日本人の勇気と叡智と知り、
また義和団事件で日本兵の優秀さを知ったからです。

義和団事件で英国公司マクドナルドは「北京篭城の功績の半ばは、特に勇敢
な日本兵に帰すべきものである」と言い、また柴中佐は絶え間ない激戦で
つねに怪腕をふるい、全ての国の指揮官が柴中佐の見解と支援を求めるよ
うになった」と55日間籠城したアメリカ人ポリー・スミス婦人が言ってい
ます。

この後北京で一緒に戦った英国のマクドナルドは駐日大使になり、日本人の
ずば抜けた優秀さと、礼儀正しい姿を知って日英同盟の締結を推し進めまし
た。もちろんイギリスの思惑は、義和団の乱以来満洲から撤兵しないロシア
を牽制する目的がほとんどであることは当然の事です。

それでは日本側に日英同盟を決断させた最大の誘引はなんだったのでしょ
うか?それは三国干渉(1895年)です。日本は日清戦争で勝利し下関条約
で遼東半島の割譲を要求しました。それを知ったロシアはイギリス、ドイツ
フランスの三国に提唱して遼東半島の清への返還を日本に迫りました。
イギリスは正義を理由に干渉を拒否しています。

明治政府は欧米列強から、理不尽な脅迫を受けたのです。日本にとって
これほどの屈辱はありません。しかし「三国に対抗するには独力では
不可能である」と陸奥宗光外相は述べています。しかも2年後ずるい
ロシアは遼東半島を租借しています。

これを知った当時の日本国民は怒り心頭に発し、「臥薪嘗胆」が国民の
合い言葉になりました。その10年後に日露戦争が起こっています。

このときから明治政府はこの国際情勢下では、国益の保全を図る上で
同盟国の存在が必要不可欠だということを、心底悟りました。日英同盟は
その7年後です。

日英同盟(1902年)という国家の岐路とも言うべき重大決定の前に「満
漢交換」について説明する必要があります。平和主義者の伊藤博文は
ロシアとの戦争を避けるために「満漢交換」を提案しました。

つまり朝鮮半島は日本の勢力圏、満州はロシアの勢力圏という線引きを
ロシアに飲まそうと、伊藤はロシア訪問を敢行しました。一方明治政府は
日英同盟の秘密交渉を続行しており、ロシア訪問を知った英国は疑心暗鬼
に陥っていました。

ロシアを全く信用していなかった小村寿太郎外相はイギリスとロシアを
比べて歴史上、同盟が規定する約束を不履行にした経験があるか否かを
外務省に徹底的に調べさせています。調査の結果、英国の履行度合を高く
評価し、ロシアを信用が置けない国であることがわかりました。

伊藤博文は日英同盟の選択に同意しました。日英同盟の締結に際して、
冷徹で先を読む現実主義者であった小村寿太郎の爪の垢でも煎じて現在の
外務省に飲ましてやりたい。

ロシアがいかに信用の置けない国であるかということを39年後日本は
知ることになります。日ソ中立条約を一方的に破棄し、その有効期間中
に侵略するという極悪非道な行為を行いました。

満洲、樺太に侵略したソ連軍は、各地で殺戮、略奪、強姦の限りをつくし
またシベリア抑留をはじめ数々の残忍な行為をくりかえしました。しかも
日本はポツダム宣言を受託し武器を全て置いた後に、卑怯にも狂ったよう
に猛攻撃を続けたのです。

ソ連軍将兵の人間離れした素質の悪さは、ドイツ戦線でも発揮されています。
ベルリンの女性の多くがソ連兵によりレイプされ、連合軍に届けられた件数
が10万件を超え、暴行による自殺者は6000人を数えた。
スターリンの娘スベトラーナもこれを裏付ける証言をしています。

また話がアサッテに飛んでしまいました。元に戻します1902イギリスは
極東での最も良きパートナーとして日本を選びました。日本はイギリスの
後ろ盾によって、1904年世界最強のロシアに立ち向かう事になります。

強大なロシアは極東のちっぽけな日本との戦争を恐れる理由は何もなかった。
世界中も日本が勝てるなど誰も信じていなかった。しかしここでも再び日本
は奇跡を起こしました。



(次回はいよいよ日露戦争に入っていきます)




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大英帝国と日本 近現代史の旅 NO8    6月18日(月)


近現代史の旅 8回目です。幕末・明治維新においてイギリスの影響が
いかに大きかったか、日本を世界に対して目を開かせたイギリスの役割
がいかに大きな意味をもっていたかを今日は考察してみます。

前回は「薩英戦争」のことを書きました。この戦争によって薩摩藩の志
士たちが信じきっていた攘夷論が井の中の蛙であることを嫌というほど
思い知らされました。

いわゆるいくら砲台を築いても大砲の威力が違いすぎた。たった3時間
の交戦でこれほどの被害を受けては、反撃すらおぼつかない。攘夷が
いかに愚かなことであるかを薩摩藩は思い知らされました。

一方イギリス側も旗艦・ユーリアラス号は館長と士官が戦死し主甲板に
は破裂弾を喰らい多数の死傷者を出し戦線離脱、パール号も砲撃を浴び、
戦線離脱をするなどイギリス艦隊も大きな被害を受けました。イギリス
艦隊はこれ以上の被害を避けるために湾口に引き上げた。

この戦争で、攘夷実行を声高に主張してきた薩摩藩の信条は木っ端微塵
に打ち砕かれた。そしてイギリス艦隊が体制を立て直して再び攻撃して
くれば薩摩藩は反撃できる余録はすでになくなっていました。

イギリス側もすでに60数名の死傷者をだしこれ以上の死傷者を出すこと
を恐れていました。それよりもイギリス側は薩摩藩の勇猛果敢な戦いぶり
や、脅しに決して屈しない薩摩武士に今までのアジア人とはまるで違う
異質の民族を見ました。

薩摩はイギリスと直接対決して,攘夷実行がいかに愚策であるかと言う事
と、欧米の強さは国家が一つになって富国強兵策を実施していることで
あることを知りました。

振り返って日本を眺めたとき、各藩ごとに国内を統治していては、富国
強兵はおぼつかない。そこで朝廷を政権の中心に掲げ、腐りきっている
幕府を排除し、国家統一をなし、国内総出で富国強兵を実施しなくては
欧米列強の強さに対抗できないとの境地に至りました。

つまりなかなか倒幕に踏ん切りがつかなかった薩摩志士たちに尊王倒幕
の目標が明確に確立しました。

薩摩と同じ思いをし、目覚めたのが長州藩です。長州藩は薩摩以上の
強行攘夷派で、朝廷を巻き込んで、全面攘夷戦を国内に展開しようと、
画策していました。

まず下関海峡を通るアメリカ商船を砲撃、そして下関海峡を通過しよう
とする外国船に向けて次々と砲弾をぶっぱなした。当然欧米列強とてこの
まま黙っていない。早速アメリカ軍艦が長州藩に報復攻撃を開始、長州
藩軍艦を撃沈し、さらにその他も撃破、その4日後にフランス軍艦が
報復攻撃を開始、長州藩も必死の反撃を行なったが,成すすべもなく
敗退した。

長州藩は打開策として高杉晋作の提案した民兵組織の騎兵隊を次々と作り
上げ準備しました。その1年半後、既存の航路を使用できなくした長州藩
を徹底的に痛めつけるために、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ
の連合軍が長州藩を猛撃してきました。薩英戦争の約1年後のことです。

欧米列強の連射砲撃で長州側の主要な砲台は1時間足らずで壊滅状態に
されてしまいました。欧米列強が保持する兵器などの差は歴然としており
このまま、単独で戦うことは不可能と判断して講和を申し立て、高杉晋作
が連合軍との交渉にあたりました。

連合艦隊の主力はイギリスで、イギリスは薩英戦争で薩摩を甘く見た為に
被害を大きくしたことを反省して、軍艦17隻、兵員5000名の精鋭部隊
を投入しました。これでは兵器の劣る長州藩では勝ち目はありません。

正使に抜擢された高杉晋作は壊滅的大敗をしたにも関わらず、威風堂々と
した態度で、長州藩に不利益となる項目は拒否を通しました。この一連の
戦争で、イギリスは長州の誇らしい態度をみて、薩摩藩士と同じ日本武士
の魂を知りました。

この戦争で長州は薩摩と同じように攘夷は、机上の空論と悟り、天皇を
中心とする国家統一が、欧米列強の国体と同じくすることを知りました。

つまり薩摩も長州も、狂気と思えるような尊王攘夷を唱えているうちに
薩英戦争と下関戦争(馬関戦争)によって突然尊王開国に変わってしま
った。その意味で、この薩英戦争と下関戦争は日本の進むべき道を悟ら
せてくれた重要な起点となる事件でした。

明治維新がなぜあれほど成功したか?この二つの戦争を語らずに明治維新
の成功を記述するのは無理があるように思います。個人であれ国家であれ
信仰にも似た狂気の攘夷思想を変えるには適度の挫折程度では無理です。

薩長は短時間に壊滅的打撃を被り、欧米列強との国力の差は計り知れない
と認知して、そしてその後それを見習うために薩摩は4名の通訳と15名の
留学生を派遣しています。

このように薩摩藩の決断と若き薩摩の青年たちはイギリスから徹底的に
技能と国家組織の修得を進めました。そして帰国後明治政府に仕えて、
留学の成果を大きく発揮しました。

長州藩も薩英戦争前1863年にすでに5人の青年がロンドンに留学していま
す。薩摩と違って自費による密航でしたが、世界情勢を知りたいという
青年たちの思いでした。

このような青年たちが日本の歴史を大きく転換させ、新生日本を建設する
原動力となりました。


(話がなかなか前に進みませんが、幕末の志士たちが何故攘夷を捨てて
尊王開国に変わったか ということと、イギリスが何故日本人を認めたか、
何故アジアの新興の小国日本と対等の同盟関係を結んだか、を知ってもら
いたくて、少し話が横道にそれてしまいました)
次回もお付き合い下さい。




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「日英同盟」 近現代史の旅NO7    6月15日(金)


近現代史の旅の7回目です。いよいよ日露戦争1904年(明治37年)へと
筆を進めますが、その前に日露戦争の勝利に陰ながら貢献した日英同盟
について明治政府の苦心惨憺の思いを検証してみます。

その前に認識することは、当時のアジアの国際情勢は欧米列強の草刈場
と化していて、当全日本も幕末から明治維新にかけてイギリス、フランス、
アメリカ、ロシアなどの強国は隙あらば日本を植民地にすべく虎視たん
たんと狙っていました。

それでは何故日本だけが欧米列強の植民地にされずに明治維新を迎える
事が出来たのか?この謎を解くために当時の世界情勢を検証してみます。

明治維新は1867年薩長連合によって成し遂げられましたが、当時の世界
情勢はクリミア戦争(1853~1856)イギリス・フランス等対ロシア
アロー戦争(1856年~1860年)イギリス・フランスの同盟軍対清国
アメリカ南北戦争(1861年~1865年)内乱

つまり欧米列強は度重なる戦争で軍も戦費も消耗してしまい日本まで手が
回らなかった。しかし日本に対する野望を失ったわけではない、だから
各国はお互い牽制しながら日本に関与し続けました。

明治維新とは日本国の内乱です。欧米列強にとって内乱は大歓迎です。
内乱によって日本国を疲弊させれば、戦費をあまりかけずに日本国を
支配できると各国は考えていました。

薩長連合にイギリスが付き、幕府側にはフランスが支援しました。アメ
リカは南北戦争の後処理で忙しくて、日本に深く関与出来ませんが、日本
の内乱に口だけで一枚かましてもらいました。つまり一国だけに日本の
利権をむさぼられないように万国公法の遵守を主張しました。

イギリスは万国公法を遵守することを宣言して中立を守りました。他の
外国も英国に従って中立を守りました。

幕府側の勝海舟は幕府を支援しようとするフランスを毛嫌いしていました。
勝海舟は外国の手を借りて官軍と幕府が戦えば、どちらが勝っても日本国
が疲弊して、外国に支配されることが目に見えていました。

勝海舟は幕府の人間でありながら、薩長連合が勝利することを予感して
いました。勝は幕府が勝利するより薩長連合が勝利するほうが日本の
将来にとって良いと考えていました。

それは薩摩藩の行列を横切ろうとしたイギリス人を殺傷した生麦事件で
脅迫に怯えた幕府が破格の10万ポンドの賠償金をイギリスの言いなりに
出した弱腰の対応を見て日本の将来に不安を感じていたからです。

ところが冷静に国際情勢を把握していた薩摩藩は果敢にもイギリスに戦い
を挑みました。琉球との貿易で一早く英国艦隊を警戒していた薩摩藩は
自力開発の大砲を含む85門で鹿児島湾は一大要塞と化していました。

イギリスは幕府から賠償金の支払いを受けていながら今度は薩摩藩に賠償
金2万5000ポンドと下手人の処刑を要求しました。1863年鹿児島湾に
イギリス艦隊7隻が脅しの為に入ってきました。

戦いを覚悟していた薩摩藩はイギリスの要求をはぐらかしていました。
イギリス側は脅しに屈しない薩摩藩を脅迫するために外国から購入した
汽船三隻を拿捕しました。

ついに薩摩藩の全砲台が一斉に火を吹きました。薩摩藩の砲台は83門
を備え、射程距離は約1Kmであったが、それに引き換え、イギリス艦隊
の艦砲は101門でその中には世界最強の大砲・アームストロング砲があり
射程距離は4Kmもありました。

しかしイギリス艦隊は知らず知らずのうちに薩摩藩の砲台に近づきすぎて
全艦ともに薩摩藩の砲撃を浴びた。イギリス艦隊は大きな被害を受けたが、
それ以上に薩摩藩は大きな被害を受けこの戦争で近代工場設備を整えた
工場群が焼失し鹿児島の町の一部は火の海と化しました。

イギリスはこの薩摩藩の反撃に驚愕した。アジア人がイギリス艦隊に戦い
を挑むなどこれまでの経験上考えられませんでした。

アジアに多くの植民地を作ってきた最強のイギリス軍に立ち向かい、一戦
交えた後にさらりと講和のテーブルに着いた薩摩の力と理性にそれまで
見てきたアジア人にはない知性と教養をイギリス人は感じました。この
思いが1902年の日英同盟へと繋がっていきました。

日英同盟を「イギリスがロシアを牽制し、中国・朝鮮で利害が一致する
両国が結んだもの」という単純な解説や「イギリスからすれば日本は
最も使いやすい将棋の駒にすぎない」と片付けてしまえば身も蓋もあり
ません。

当時イギリスは7つの海の覇権を握ってカナダからオーストラリア、イン
ドや香港に広がる広大な植民地を経営し超大国として栄え、大英帝国と
呼ばれていました。

この誇り高き大英帝国が「栄光ある孤立を」を捨ててまで極東の日本と手
を握ったのです。当時の白人にとってアジア人などは人間扱いしていな
かった時代の話なのです。

イギリスは薩英戦争によって日本人の強さと規律正しい見事な行動を知り
ました。そして幕府だけが日本ではないと気づき、薩摩の倒幕を応援
しました。

イギリスは当初日本を列強と分け合って分割統治することを考えていまし
たが、薩英戦争後はアジア人でない日本人を知って戦う事の被害の大きさ
を計算して当初の考えを捨てました。

それとイギリスに日英同盟を決意さてたもう一つの事件は、明治維新後
1900年の義和団の事件です。イギリスはボーア戦争のさなかで出兵の
余裕がなく日本に何ども出兵を求めました。日本は快く応じて3万余の
兵を送り鎮圧しました。

その際の極東の憲兵としての最も決定的な役割を果たした日本をイギリス
は賞賛し日本を信頼しました。この事件の後、イギリス人の中では日本を
白人と同等に扱い始めました。



(今日は「日英同盟」の話だけで終わってしまいました。このまま日露戦争
に入るのではなく、薩英戦争によって、攘夷実行を声高に主張してきた幕末
の志士達の信条は、木っ端微塵にうち砕かれ、攘夷実行がいかに愚策で
あるかを知りました。倒幕に向かった志士たちの心情ををもう少し詳しく
次回は検証してみます)




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悪しき国ロシア 近現代史の旅 NO6   6月13日(水)


近現代史の6回目です。さて日本は清国に勝利したことにより世界の
舞台にデビューすることができました。

日清戦争は東アジアに属している日本が中国という旧態依然な姿勢を崩さ
ず国としての体をなしていない中国の実体を知り、中国と再び決別でき、
「脱亜入欧」に舵を切った歴史的な瞬間でもありました。

日本はもともと反中国的な国家でした。7世紀末の日本建国は、中国大陸
に呑み込まれないための自衛手段でした。だから「再び決別」と書いたの
です。

21世紀の日本は3回目の中国との決別をしなければならない時が必ず
訪れます。政治家もメディアも財界も中国の捏造された歴史観に影響され
彼らの恫喝と宣伝に乗せられています。日本はアジアの為、世界の為に
中華の害毒と戦わなければならない、それが日本の運命であり使命です。

さて近現代史の旅を続けるために1900年代に話を戻します。
日本は朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響
力を排除したものの、ロシアは ひたひたと南下してきます。

1900年義和団の事件が起こります。義和団は山東省で結成された農民の
自警団であり、宗教的な側面を持っています。貧困に苦しむ農民たちの
不満の受け皿として大いに成功しました。

本来不満は清朝に向かうはずが「扶清減洋」というスローガンを途中から
掲げるようになってから攻撃相手が欧米列強に向っていきました。つまり
清を助けて欧米列強を滅ぼせという意味です。

清国はこれ幸いと利用して列国に対して宣戦、ドイツと日本の公使館員が
惨殺されるに及んで13ヵ国が出兵してこれを鎮圧しました。

イギリスはボーア戦争のさなかで出兵の余裕がなくイギリスの要望で日本
は三万余の兵を送り、最大の貢献をしました。西太后をはじめとする清朝
首脳陣は北京を捨てて逃亡し、義和団事件は事実上終了しました。

しかし日本は哀れな中国を追い込む事を極力避け、賠償金額を最小限に
とどめましたがロシアやドイツは日本の3~4倍の金額をせしめました。
単に傍観者に過ぎなかったロシアは、清国に派兵した軍を撤兵させず、
朝鮮国境に砲台を建設し、シベリア鉄道で軍の輸送を開始するにいたった。

話は少し本筋から外れますが、この義和団の事件を「外国勢力の進出に
危機感を持った中国人が反発した」と歴史書では解説していますが、中国
人のメンタリティーの中には国家とか民族というものは存在しない。つま
り中国人に国家に対する忠誠というものはまず存在しない。

中国が欧米や日本との最大の違いは国家システムを持っていないという
ことです。いわゆる中国は皇帝システムなのです。欧米列強は近代になり
一早く最強の国家システムである国民国家を作り上げました。

日本は幕藩体制では欧米に太刀打ちできないとみた日本人は、倒幕運動
を起こし明治政府を樹立しました。実はこれが国民国家への出発です。

現在の中国は、1912年の中華民国建国以来、国民国家化に向けて努力
していますが、いまだに実現しているとは思えない。近代国家の基本
は国家システムの構築ですが、中国には同じ言語と同じ歴史を共有する
国民というものが存在しない国で国家システムを作り上げることは
ほとんど不可能です。

近代に入り、欧米列強が次々と海外に植民地を建設し、世界を席巻して
いった最大の理由は、この国家国民という国家システムの優秀さにあった
といえます。

中国が国民国家に成り得ていない証拠の一つとして、中国人民解放軍は
あくまで共産党の軍隊であり、国家の軍隊ではないとされています。
共産党は現在の皇帝です。だから皇帝を守るために軍隊が人民を弾圧
しています。

人民解放軍は武器の持っていないウイグルやチベットの少数民族に対して
は残虐の限りを尽くしますが、武器を持って抵抗してくる相手には非常に
弱い、「懲罰行為」とえらそうに称してベトナムに1979年侵攻を開始しま
したが、ベトナム軍相手に多大な損害を出し、1ヵ月足らずで撤退して
います。

ベトナム軍は約10万、中国軍は60万と言われていました。6倍の軍を投入
してもベトナム軍にこっぴどくやられています。なぜかと言えば中国兵は
国民国家という意識がないために、国の為に命を惜しまない兵があまり
いなかった。

中国軍は敵と対面すると逃げ出すために軍の後方には必ず銃を持った兵士
が睨んでいます。これでは勝てるはずもありません。

毛沢東は西洋のような優秀な国民国家というシステムを作らなければ
近代国家になれないし、国民は国家のために命を投げ出してくれない。
文化大革命での計画のひとつは少数民族の文化を奪い、あるいは抹殺する
ことで、中国人全てを漢族にしてしまおう、そうすれば中国は国民国家に
なれると毛沢東はかんがえました。

このようになにがなんでも国民国家を実現させようする試みが現代中国の
悲劇を生んでいますし、将来の崩壊の芽を育てていることになります。


(話がアサッテに飛んでしまいました。次回は日英同盟から話を進めます。
日英同盟はやがて日本がロシアと戦う事を想定して結ばれた同盟です。
なぜイギリスはパートナーとして日本を選んだのか?その辺から次回は
進めたいと思います)




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「脱亜入欧」近現代史の旅No5      6月11日(月)


近現代史の旅の5回目です。前回「日本は朝鮮が清から独立して近代化
を進める事を願っていた」とかきました。しかし李氏朝鮮は今だ千年の
夢から覚めず、本国の中国より以上に中国化した専制体制を続けていま
した。

日本は明治元年からたびたび使節が送られ、新たな国交や通商を求めた
が、日本政府からの国書の受け取りを拒否しつづけました。

朝鮮は中華主義にこり固まっていて,華夷秩序に属さない日本は自分より
下位で蛮族以外のなにものでもないと思っていました。そして清国に対し
ては臣下の礼を取り続け、そのつど報告をして、意見を求めていました。

しかしその親分の清国があいつぐ列強の侵犯を受けて、ボロボロの状態
で、属国である李朝など相手にしている余裕などありません。

ところがロシアは南下をつづけて朝鮮国境まで領土を広げています。もし
朝鮮半島がロシアに領有されれば、日本の国土防衛そのものがほとんど
不可能になります。

明治6年に朝鮮は大院君が失脚し改革派に支えられた王妃の閔氏一族が
実権を握ります。そしてやっと明治9年にようやく日朝修好条規が結ばれ
ました。改革派官僚たちは日本にやってきて、その近代化のスピードと
軍制の改革の有様を目にして仰天します。

明治政府は朝鮮の独立と近代化の必要を彼らに説き、欧米列強の強さと
野望を教えました。朝鮮も各国に窓を開きアメリカ、イギリス、ロシア
フランスがソウルに在外公館を開きました。

やっと目覚めた閔政権は日本人将校を招いて日本式軍隊の訓練を始めま
した。朝鮮の改革派は日本の支援で独立と近代化を達成しようと目論ん
でいました。ところが清国は下位の小国である日本が千年属国である朝鮮
に進出していくことが許せなかった。

清国は、これが日本でなくイギリスやフランスであれば目をつぶったが、
下位の日本では黙っているわけにはいかなかった。清国は1881年に起き
た保守派の反乱鎮圧後ソウルを軍事体制化に置き、直接李氏朝鮮を支配
しました。

清国は1842年の「阿片戦争」でイギリスに破れ、多額の賠償金と香港
の割譲、広東、上海など多くの開港を認め、治外法権、関税自主権放棄
などを余儀なくされました。その上この不平等条約に他の欧米列強が
便乗するしまつ。

つまり清国は近代化された白人の強さには、一目おいても自分より劣位
の蛮族と思っている日本にだけは自由にさせるわけにはいかなかった。

朝鮮は日本派と清国派に別れて争い、1884年、金玉均率いる改革派は
日本公使館守備兵の支援を受けてクーデターを挙行したが、清国兵が
出動し、日本公使館は炎上し、在留日本人40人以上が惨殺されました。

後に金玉均は上海で暗殺され、売国奴として朝鮮で遺体が八つ裂きに
されました。閔氏は今度は清国への依存度を強め、改革派の目を摘み
千年属国に戻っていきました。

明治政府は、いくら説得しても、支援しても言葉が届かない厄介な朝鮮
に絶望していました。福沢諭吉はアジアの共闘はありえないと悟り、
日本一国の近代化路線に転回して「脱亜入欧」を主張します。

日本の進出を排除した清国は朝鮮の支配権を強めていきます。ウラジオ
ストックに拠点をおくロシアは虎視眈々と朝鮮を狙っていました。李氏
朝鮮は、清国に頼りきっていましたが、満洲鉄道の利権を手に入れ、
清国を侵食し始めた強国ロシアに、にじり寄り朝鮮は清国を裏切る姿勢
を見せ始めました。

このまま行けばいずれ朝鮮はロシアの植民地にされてしまいます。ここ
に至って日本は朝鮮から清国の勢力を一掃し、ロシアの野望を砕くため
に朝鮮を独立国にする戦争を決意します。

近代化された日本軍は、指揮・装備の不統一な清国軍を終始圧倒、各地
で勝利をおさめた。わずか1年足らずで清は降伏し、1895年下関条約を
むすび清は朝鮮の独立を認め、遼東半島を日本に譲り、多額の賠償金を
支払いました。

中国よりも文明程度において低いと欧米から侮られていた未知の新興
国家日本が、いくら弱体化したとはいえ大国清に勝てるはずがないと
欧米各国は日本の敗北を予想していました。

日清戦争は日本の文明が老廃国中国よりも高く、日本の近代化はすでに
一段と他のアジア諸国より進んでいることを世界に知らしめました。
維新からわずか29年しか経っていません。欧米は短期間で近代化した
日本に驚嘆しました。

欧米は日本を中国と同じく「儒教文化圏」の一員と見ていました。しかし
実際は日本は遣隋使の時代から中華文明をずっと拒否し続けて、実質的に
は、唐以後の日本文明はすでに大陸歴代王朝よりも進んでいました。

ハンチントンが「文明の衝突」の中で日本だけで一つの文明と定義されて
います。つまり日本は大陸とは別系統の文明なのです。

日清戦争の勝利により、欧米列強は、日本に対する彼らの特権を放棄し
ました。

当初日本は欧米列強の侵攻に共同で対処しようと、朝鮮だけでなく中国に
も伝え働きかけてきましたが、中国の世界常識に対する無知と唯我独尊の
傲慢な態度や 朝鮮の腰の定まらない裏切りや弱さを知り、アジアの共闘
はありえないと悟りました。

現在ルーピ鳩山が主張している「東アジア共同体」や馬鹿な政治家が唱え
ている「アジアは一つ」などの主張の愚かしさ、中国と韓国と組む事の
危険性を100年前の明治の人達はあらためて悟ったのです。

「あらためて」といったのは1000年近く前に日本は中国の危険性を察知
して遣唐使を廃止した時から宗、元、明、清に至るまで千余年の間、日本
は中華文明は魅力のないものになっていました。

つまり明治の人達は、日本の生きていく道は「脱亜入欧」だということを
あらためて認識しました。21世紀も日本は野蛮な中国に付くことのないよ
うに祈るばかりです。


(この続きは次回にて)




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厄介な朝鮮族 近現代史の旅 4     6月8日(金)


近現代史の旅の4回目です。私は歴史学者ではありません。しかし教科書
や歴史書には当時の世界情勢を無視して、日本の行動だけを取り出して
歴史全体を日本悪者論に仕立てあげています。

私はつねづねこの論法が許せなくて、日本の左翼史観に毒された歴史学者
達は幕末から第二次世界大戦まで日本の置かれていた弱い立場を研究せず
何かに遠慮して、最初から欧米列強と一緒になってアジアを侵略した悪い
国として子供たちを教育してきました。

そこで私は無謀にも学者の思考ではなく、一ビジネスマンのリアルな思考
で近現代史の旅を続けています。

前回、「クリミア戦争に敗れたロシアはイギリスやフランスによって地中
海進出を阻止され、今度は不凍港を求めて日本の北辺に迫ってきた」と
書きました。

すでにロシアは南下をつづけて朝鮮国境にまで領土を広げてきました。
もし朝鮮がロシアに征服されれば日本の国土防衛そのものがほとんど不可
能になります。ここに至れば朝鮮を独立させ、現在の世界状況を悟らしめ
ねばならない。

欧米列強がひたひたと迫って来ているアジアの厳しい情勢を朝鮮に教え
清からの独立と近代化を急がさなければ世界の中での朝鮮という国の存在
が無くなります。結果として日本国も欧米の草刈場にされてしまいます。

ここから21世紀の今日までこのどうしょうもない厄介な国である朝鮮の
面倒を見る羽目になってしまいました。裏切りを平然と行い、恩をアダ
で返すことしかしらない面倒な国に日本は介入してしまったのです。

近現代史の真実を知るためにはまず朝鮮との関わりと当時の朝鮮の実体
を暴かなければ近現代史は叙述出来ないと思います。

なぜならこの国は自国の歴史を捏造して、その捏造された歴史を日本に
強要し、その上世界中に韓国の捏造歴史を宣伝し、日本の近現代史を朝鮮
侵略史として日本悪者論に仕立て上げています。

現在の韓国では整形手術が当たり前のことで盧武鉉前大統領ですら整形
手術をしたことが知られていますが、自国の歴史を整形手術することぐら
い何も感じていないのかもしれません。

当時の朝鮮、いわゆる李氏朝鮮は経済的に破産し、軍事力もなく政権は
分裂と内紛に明け暮れ、国民は乞食同然の惨めな生活を強いられていま
した。

ところが韓国の歴史教科書では、「李朝時代の人々は豊かで幸せな生活
をしていた、そこへ日本人がやってきて、あらゆる朝鮮人が日本人の奴隷
として生き、搾取されて死に、追い出された時代だった」と一方的に
捏造して、韓国人の子供たちに強力な反日洗脳教育をしてきました。

つまりひどい醜い顔をした朝鮮人を日本人の税金でまともな顔に整形した
のに、もともと生まれながら美人だった言い張っているのが朝鮮人です。

このような事を書くと又コメント欄で在日朝鮮人の工作員に攻撃されそう
ですが、英国婦人のイザベラ・バードの朝鮮紀行に一般の歴史書では、
知りようもない、朝鮮の惨めな民衆の様子が書かれています。

イザベラ・バードの朝鮮紀行における当時のソウルの様子です「都会で
あり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい、推定25万
人の住民は主に、迷路のような道の「地べた」で暮らしている。

「路地の幅は、荷牛と人間がすれ違える程度の幅しかなく、おまけに、
その幅は家々から出た、糞、尿の汚物を受ける穴か溝で狭められている。
醜い悪臭のするその穴や溝の横に半裸の子供や犬が汚物の中で転げ回って
いる」

このお粗末さでは、韓国政府が李氏朝鮮の真実を知らせる事が出来なくて、
歴史教科書を捏造したくなる気持ちもわかります。

韓国はこの惨めな歴史を隠したくて、イザベラ・バードの朝鮮紀行を打ち
消すために、韓国延世大学から1997年に出版された「Korea and
Her Neighbors」には、李氏朝鮮時代は清潔で人々はとても快適かつ
豊かにくらしていると捏造しています。

またNYタイムズからも朝鮮紀行の実本とは全く異なった改ざん本が
出版されています。そこには100年前のソウルは近代化されていて
東洋一きれいな都市と書かれています。朝鮮人は整形前の醜い顔を知ら
れたくなくてもともと美人だったと世界に向かって叫んでいます。

朝鮮紀行は英国婦人の見た李朝末期を非常に細部にまで鋭い観察眼で
描かれています。婦人は「朝鮮は自らの力で改革するチャンスがあっても
みすみす見逃し、日本から独立というプレゼントを貰ったものの、その
使い方を知らず」と書いています。

また、婦人は「日清戦争を挟んで清国兵に規律がなく略奪や暴行を働く
清国軍とは対照的に日本軍は厳格に統制されて、常に品行方正だった」
と書かれています。しかし何故か反中国感情は芽生えず、朝鮮人の反日
感情は相当強かった。

つまり朝鮮は1000年間も中国の属国で暮らしてきて影響を受け続けて、
中華中心の秩序に服属していれば安全という昔ながらの惰性のなかに
1000年間も閉じこもってきたのです。

朝鮮の歴史は「古来独立国家だったが、日本に初めて侵された」という
大嘘の歴史からの前提で出発しているために、世界史における辻褄が合い
ません。

日本では「大鏡」や「今鏡」のように歴史書のことを鏡といいます。つま
り、自分はどいうものかと直視するためのものであるという発想がありま
すが、朝鮮人の歴史に対する発想は自国のプライドを高める為の宣伝と
見ているようです。

歴史が今を映し出す鏡だと韓国人が考えるようになれば、本当に成熟した
国になると思うのですが、今更捏造された歴史を真実に戻すことなど
韓国人には出来そうもありません。


(次回はこの厄介な国朝鮮と日本の関係をもう少し検証しないと日清戦争
も日露戦争も見えてきません。次回も近現代史の真実を見つける旅を続け
てみます。)




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日本の近現代史の旅、NO3 6月6日(水)


橋下市長の「日本の近現代史の事実を教えたい」という産経新聞に載った
記事に触発されて、私なりの「近現代史の真実を求める旅」を続けてい
ます。

前回は、江戸時代は21世紀の今日の中国よりはるかに近代国家であった
事を例を挙げて述べてみました。今回は再び明治の日本に話を戻します。

それでは無力な半植民地国家であった日本がなぜ欧米列強の草刈場に
されずに武力を整えるまで時間を稼ぐ事が出来たのか?

当時産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出
拡大の必要性からインド、東南アジア、中国大陸への市場拡大にいそいで
いたが、途中から熾烈な植民地獲得競争となっていきました。

その真っただ中で明治維新が起こり明治政府ができました。明治維新の
きっかけを作ったのはもちろんアメリカのペリー来航です。アメリカは
日本を補給基地として活用すれば太平洋経由で18日で行けるという驚異
的な時間短縮が見込めるため、ヨーロッパのアジア戦略に対抗するために
も日本の開国は是が非でも必要でした。

アメリカは日本を開港させ寄港拠点にしたのはあくまで日本の植民地化を
目的としていました。アジアの植民地獲得競争にはすでにイギリス、フラ
ンスなどが先んじており、アジアに拠点を持っていなかったアメリカは
西欧との競争のためには太平洋航路の確率が必要でした。そして日本を
寄港拠点にして狙いはもちろん中国大陸です。

しかしアメリカは通商条約(1858年)を最後に突然日本への関与を何故
か止めてしまった。それは内乱である南北戦争(1861~1865)に突入し
てしまったからです。これは日本にとって最初の幸運でした。

明治政府が武装を整えるまでの時間稼ぎができた第二の幸運はクリミア戦
争です。私が持っている日本の近現代史の歴史書にはこのクリミア戦争の
記述が載っていません。これでは辻褄が合わなくなってしまいます。

クリミア戦争は弱体したトルコを食い物にするロシアと、ロシアの進出を
嫌うイギリスやフランスの戦いです。しかし日本からこの遠いところで起
こったクリミア戦争のために西欧列強は東アジアに目を向ける余裕は
なかった。だからアメリカはクリミア戦争の間隙をぬって日本に接近
できたのです。ペリーが浦賀に来航し、日米和親条約が締結されたのは、
1853年クリミア戦争の最中です。

この時期危険なロシアも虎視眈々と日本を狙っていましたが。クリミア
戦争のために日本到着がペリーより遅れました。それでも1855年には
日露和親条約が締結されました。

クリミア戦争の直接的な発端は1853年7月、ロシア軍は突然トルコ領
であるモルトバ、ワラキアに進駐、トルコ軍と対峙しました。苦境に
たったトルコ軍を英仏艦隊が支援しました。

同年11月、ロシア黒海艦隊は、停泊中のトルコ艦隊を全滅させ、砲艦射
撃で街を焼き払い、多くの市民を犠牲にしました。結果的には産業革命
を経験したイギリスとフランスの国力がロシアを上回り、トルコはロシア
を撃退することができました。

21世紀の今日になってもトルコが熱烈な親日国家として知られていますが、
それはトルコの永遠の宿敵ロシアを東洋の小国である日本が破ったから
です。日露戦争はクリミア戦争から51年後のことです。明治維新は1867年
クリミア戦争から14年後です。

このようにクリミア戦争は、直接的ではないが日本に幸運をもたらしま
した。すなわち西欧列強のアジア植民地獲得競争のスピードを鈍らすこと
になりその間に日本は明治維新を起こして、欧米列強に踏み潰されずに、
西欧と互角に渡り合える力を付けることが出来たのです。

このように近現代史の歴史を順に追っていきますと結局日本に幸運を
もたらしたのはイギリスとロシアの伝統的な対立のような気がします。

クリミア戦争に敗れたロシアは、海への出口を失って、太平洋の不凍港
を求めて東北アジアへの進出を企て始めました。最初にロシアは朝鮮に
隣接するウラジオストックを支配しました。

ここから日本はにわかに風雲急をつげ、ロシアの脅威に身を晒すことに
なります。


(次回はクリミア戦争から51年後の日露戦争までの日本の苦心惨憺な
思いを検証してみます)




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日本の近現代史の真実を求める旅    6月4日(月)


前回の続きです。近現代史は明治維新の出発時点における東アジアの国際
情勢を踏まえなければ、正しい歴史認識を得ることは不可能だと述べました。

それでは当時のアジアの国際情勢を検証してみます。出来立てのよちよち
歩きの明治政府の周辺には野盗のごときの欧米列強が我先にと無制約に
アジア諸国を植民地化していった危険な時代でした。

日本にしてみればアジア諸国がことごとく欧米列強の手に落ちるのを見て
恐怖感で心細かったにちがいありません。このような情勢を踏まえれば
日清戦争も、日露戦争も韓国併合も欧米列強から身を守る手段としての
致し方のない行為であったということが見えてきます。

戦後の日本の近現代史は、この危険な時代の背景を無視して日本のとった
行動だけを見て、欧米列強と一緒になってアジアを侵略した悪い強国とし
て日本の近現代史を描いています。それは事実に反するおかしな前提から
近現代史を展開するからです。

近現代史の真実を見つけるためにまず当時の東アジア情勢を検証してみ
る必要があります。欧米列強の侵略の最大の対象は中国でした。中国を
押さえるために戦略的に重要な拠点が日本でした。

朝鮮半島は中国を押さえれば自動的に支配できると欧米列強は考えていま
した。そもそも欧米列強は朝鮮を中国の属国であり国としては認めていま
せん。現実に朝鮮は中国の千年属国であり独立した国ではなかった。

日本は不平等条約に手足を縛られた欧米列強の反植民地国家の状態にあり、
中国よりも文明程度において低いと欧米からあなどられていた未知の新興
国でした。

しかし日本は明治維新以後近代国家になったように言われていますが
トンデモナイ すでに日本の江戸時代の社会ソフトやシステムは欧米を
凌駕していたと言っても過言ではありません。

話は横道にそれますが、日本をよく知るために江戸時代における江戸の
凄さについて当時のロンドンやパリと比べてみます。

江戸時代には欧米よりはるかに進んだ素晴らしいシステムが多く存在
していました。まず驚かされることは水道設備です。江戸の長屋には
必ず井戸がありますが、単純に地下水を汲み上げたのではありません。
井戸は地下の木管の中を流れる水を、木管に開いた穴から汲み上げる
井戸だったのです。1年中1日中使えるこの水道設備は欧米にはまだ
どこもありませんでした。

排泄物についてはロンドンやパリでは川に流していたようでテームズ川
もセーヌ川も異臭を放つ猛烈なドブ川でした。江戸では排泄物は便所から
汲み取られ、堆肥の材料として利用されていました。したがって川に流す
ことはありませんでした。

洗濯や米のとぎ汁などに使われた水は畑や植木にやったり、打ち水する
などに使い 決して川に流したりしませんでした。だから隅田川の水を
汲んでお湯を沸かすことも出来たのです。江戸を訪れた外人は江戸の
街の清潔さ、よく入浴し、よく洗濯された着物を着る江戸の庶民の
清潔さに驚嘆したという記述が残されています。

教育についても寺子屋による就学率の高さは、当時群を抜いて世界一で
した。イギリスの大都市でも20%、フランスでは僅か1.4%です。江戸
は農村まで入れても80%前後と言われていました。

さらに驚くべきことに1680以降の元禄時代にはすでに貨幣経済が農村
にも浸透し、作物、魚、塩、綿織物、お酒、瀬戸物などの商品が流通し
18世紀には家内工業が各地に勃興しました。

江戸の人口は1800年頃120万人が暮らす世界一の大都市でした。当時の
ロンドンが90万人、パリが60万人,ニューヨークにいたってはたったの
6万人でした。

100万を超える江戸の大都市の治安を守るために、現在の警察にあたる
与力、同心の組織が張り巡らされていました。テレビで放映された鬼平
犯科帳の長谷川平蔵が火付け盗賊改の長官になったのは1787年です。
びっくりすることにこの少人数で100万の大都市の治安を守っていたの
です。

1842年清とイギリスの間で起こった阿片戦争での清の敗戦はいち早く日本
にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられました。日本は敗戦した
中国よりも早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせました。
そして清国の自国を常に過大評価していた油断と西洋諸国の兵力の恐るべ
き威力をしりました。

それまで異国船打ち払い令を出すなど強固な態度をとっていた幕府は、
この戦争結果に驚愕し、突然欧米列強への態度を軟化させました。この
幕府の弱腰がやがて開国の大きな要因となり、のちに明治維新へと繋がる
ことになりました。

今日の話はかなりアサッテに飛びましたが、近現代史の真実を知るために
は、明治維新以前も知る必要があると思って書きました。つまり今日私が
言いたいことは、日本は欧米列強より武器の面においてはかなり遅れて
いますが、国の社会システムでは欧米以上に進んだ国であったということ
を知ってほしかったからです。

江戸時代を検証すればするほど、現代中国よりも200年前の江戸時代の
方が社会ソフト、環境、衛生、教養など、庶民のシステムのあらゆる面
で中国より進んでいるような気がするのは私の奢りかもしれません。

しかし中国内部に足を一歩踏み入れた時、この国は人間が住める国では
ないことに、愕然としました。大都会の上海や北京ですら水道水は今だ
飲めません。水道水が便所の排水と全く同じ成分であると教えられた時
からこの国に二度と行きたくなくなりました。この国の多くの企業は
汚水処理を全くせずに直接川や湖に排出しています。

中国のことを書けばきりがありません。知って欲しいことは江戸時代の
江戸の町は21世紀の中国よりはるかに近代国家であったということを
覚えておいてください。

(次回は再び明治に戻って近現代史の真実を求める旅に出かけます)





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橋下市長が子供に近現代史を教えたい    6月1日(金)


橋下徹市長が、近現代史をテーマにした新たな教育施設の設置構想を
正式表明した。市長は「教えたいのは愛国心のイデオロギーではなく、
歴史的な事実についての知見、僕が重視しているのは価値観ではなく
資料の部分だ」と強調する(5月30日産経)

戦後、左翼史観で近現代史全体を日本悪者論に仕立てあげた捻じ曲
がった教科書で育った人たちに真実を知らせることは非常に重要なこと
です。橋下氏に期待します。

しかし橋下氏は「価値観でなく資料の部分だ」と言っていますが、重要
な事は起こった事実だけでなく 何故起こったかを知る事の方がより
重要です。つまり日本の近現代史の出発点を当時の国際情勢を前提に
しなければ、資料だけでは何も見えてきません。価値観を把握する
ことによって日本の行動が見えてきます。

明治以後の日本の近現代の歴史については、さまざまなレッテルが貼られ
てきました。いわゆる罪悪史観、暗黒史観を土台にした日教組の教育や
メディアをリードしてきた進歩的文化人によって日本人を限りなく貶めて
きました。

近代日本史を当時の国際情勢を踏まえずに日本の行動の事実だけを見て
日本は欧米列強と一緒になってアジアを侵略した悪い国として教科書や
歴史書に書かれてきました。

まずはっきりと認識しなければいけない事実は日本は明治維新の出発点
において欧米列強の迫り来る武力脅威があったという事実です。

日本の武士階級が目覚めた最初の事件は維新に先立って起こった薩英戦争
と馬閑戦争の敗北です。この敗北によって外国と日本の差に愕然とし、
近代化の覚悟とスピードを早めました。

当時のアジアの国際状況は欧米列強の草刈場と化していました。すなわち
欧米列強のアジアの植民地支配は明治維新以前に完了していたのでなく、
明治維新以後にまだ進行途上でした。

フランスはカンボジア、ベトナム、及びラオスを植民地化、オランダは
インドネシア、マレーシア等を植民地化、さらにイギリスは19世紀末に
マレー半島及びボルネオ島の一部をオランダから奪い取った。インド
支配だけは明治維新の10年前、アメリカはハワイの併合、フイリピン
奪取も同時進行、そして日本の最大の恐怖は不凍港を求めて南下してく
るロシアでした。

このようなアジア情勢の中でまだ近代化に一歩踏みだしたばかりの明治
政府はどんなに心細かったことか、迫り来る欧米列強から身を守らなけ
れば他のアジア諸国のように植民地化されてしまいます。

列強のアジアでの植民地政策は黄色人種を人間として扱わないで、奴隷
のように強制労働をさせる過酷な制度でした。

列強が採用した強制栽培制度は、支配国が一方的に定めた安い賃金で、
住民に農産物を栽培させ、払った賃金の大部分は税金として支配国に還流
されました。つまり住民は無償で働かされたのです。この強制栽培制度に
よって列強は莫大な富を得ましたが、住民は心も体もボロボロにされて
いまいました。

日本が韓国を併合した事と、この欧米の悲惨な植民地政策を同じ視点で
論じる間違いを正さなければいけません。朝鮮の開国期と日本の統治につ
いての、一方的に歪曲された歴史認識については次回に詳しく書くつもり
です。

今回は事実に反するおかしな前提から近現代史が展開されてきたために
日本を欧米列強と一緒になってアジア侵略をした悪い国として書かれて
いるケースを正さなければいけません。

当時地球の隅々まで隙あらば手を伸ばし植民地化しようと企んでいる欧米
列強がひたひたと日本に迫ってきたのです。アジア諸国が次々列強の手に
落ちるのを見て、よちよち歩きの明治政府は恐怖で緊張していたはずです。

橋下市長にお願いしたい。このような国際状況を踏まえて日本の近現代史
を見なければ真実はみえてきません。

日本を欧米諸国の草刈場にさせないために、列強の隙をついて、同じ土俵
で生きる以外に自衛の道はなかった。このような状況を前提にして日本の
近現代史を考察していただくことを橋下市長様に切にお願い申し上げ
ます。


(次回も日本の近現代史について考えてみます)



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