ソウルでの講演


以前に21世紀生き残るための企業戦略というテーマで韓国貿易センター(KOTRA)から講演を依頼されました。

そのような企業戦略があればぜひ知りたいのはこちらの方だったのですが、KOTORAさんから是非とも韓国企業家や若手官僚達のためにお願いしますといわれお受けすることになりました。

大阪商工会議所で開いた中国セミナーのことを知っておられたので、国際的な良いお話が聞けると思われたそうですが、ともあれソウルのKOTORA会場で1時間の講演をさせて頂く次第となったわけです。





スリランカの国内事情

02年にタミル・イーラム解放軍のトラとスリランカ政府軍が日本主導で和平調停を結ぶことになり、日本政府はタミル人とシンハラ人の和平調停のために双方に巨額の資金を無償援助することになりました。

スリランカの内紛はインドからイギリス人によってお茶摘みのために連れてこられたタミル人と元からいるシンハラ人の民族紛争とそれぞれの宗教戦争だという見方が一般的です。

しかし現地での経済活動を通してスリランカを見た私の見解は違います。
これは関西で行われた和平調停の式典でもお話させて頂いたことですが、


それはこの紛争の根底には貧困があるということです。
特に北のタミル人は成人になっても勤める会社も工場もないのが現状です。ご飯にありつくためには致し方なく軍隊にはいらなければならないのです。
軍隊は時たまドンパチをやって世界のニュースになると世界に散らばったタミル人や、ヒンズー教徒から多額の援助が入ってきます。
そのことによって彼等は生きているのです。

ゆえに紛争をなくすのは話し合いや双方の理解では解決できるはずもありません。
日本政府はそこに気付かず巨額のお金を援助したのです。

ではどうすれば良かったのか


世界からスリランカに投資を誘導してタミル人の住む北に工場や会社をドンドン造れば良いのです。そうすれば皆毎月給料が入ってくることになり、お金が入ってくれば誰も危険な戦争などしなくなります。

「土地は好きなだけただで貸します。」
「税金も要りません。」
「労働工賃は安い。」
「インフラも整備します。」

スリランカが世界に向かって宣伝していれば、

これだけ言えば世界から工場が殺到していたのではないでしょうか。


現在でもまだ紛争は続いており激しさを増しているのが現状です。
スリランカが本来の美しさを取り戻すにはまだ時間がかかりそうです。



スリランカに恒久の平和を願う

『スリランカ自爆テロ100人以上死亡』

[政府軍とタミル人武装組織、「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)の武力衝突が続くスリランカで16日、自爆テロがあり、フランス通信(AFP)によると、海軍兵士や住民ら100人以上が死亡し、約150人が負傷した。]
ニュースの続きを読む


スリランカへの再投資を検討している当社にとってかなりの衝撃です。

四年前にスリランカのタミル・イーラム解放軍のトラと政府軍が日本主導で和平調停を結ぶことになり日本政府の外務省とスリランカ政府、タミル解放軍、それに明石康特使も出席し調停式が行われました。

東京での式典はすでに小泉首相も来られて終わっており、関西でも関係者を集めて和平調停を進めるということになり、スリランカで経済活動していた当社に意見が聞きたいということで国際連合工業開発機関を通してお声がかかりました。

式典当日、プログラムでは30分程度私が喋ることになっておりましたので、
現地でのビジネス活動を通しての私自身の見解を述べさせていただきました。

企業としての観点から、スリランカの国内事情を踏まえて今後の日本とスリランカの付き合い方、方向性について述べ、これを見誤ると停戦合意は必ず崩壊しますと警告を発しました。

あれから4年が過ぎました。
残念ながらそのとおりになってしまいました。

私はスリランカという国が大好きです。
南のシンハラ人の皆さんは仏教徒、温厚でいい人たちばかりです。
この美しい国に恒久の平和が来る事を心から願っております。











パキスタン視察 その1 視察のお誘い、なぜ???



今日はパキスタン出張の思い出を書こうと思います。


昔、I B O(大阪国際ビジネス振興協会)からパキスタンの視察のお誘いをうけた。日本の繊維関係の企業を集め視察の費用はパキスタン政府が負担するという内容。

滅多に行ける国ではない、即座にOK。

「しかし何故大企業でなく当社のような中小企業なのか?」と率直な疑問をぶつける。

『輸入するような品物は何も無い、命を賭けてまで行く国ではないと言われ大企業には全て断られた。仕方ないのでランクを落とした。』

『日本政府から10社以上の企業を募集するように言われているがまだ御社以外OKをもらっていない、何社かつれていかないと政府の面子がつぶれる』と鬼気迫る勢い。

にもかかわらずやってきた企業は当日弊社を入れてわずか3社、おまけにパキスタン政府の要請は首都イスラマバードでなく商業地カラチ。

航路は、北京〜イスラマバード〜カラチ、北京で約2時間待ち、イスラマバードで一時間待ち総計約15時間のフライト、到着時間は現地時間真夜中の12時、日本時間朝の4時

一睡もせずに9時出発で服飾の展示場に到着しさっそく商品を見て唖然。
同行した日本のIBOの担当者に愚痴をこぼす。
「こんなひどい商品を見るために15時間もかけてやってきたのですか。」
『パキスタン友好の為にがまんしてください』

日本はパキスタンから糸と生地を買っていてもフアッションは買うつもりはない。
もともとパキスタンの希望で綿を糸にする機械をODAで無償援助した。何年か経つと、綿糸で売るより原反で売りたいと言い出した。そこで日本政府は紡績の機械を再び無償援助した。ところが最近原反ではなくもっと付加価値の付くファッションで売りたいとどんどん欲望がエスカレートしだしたのだと言う。 

そんなパキスタンでこの後、思いもよらない展開に。



パキスタン視察 その2 あ〜言ってしまった・・・



政府の都合でパキスタンくんだりまでやってきた前回のつづき


パキスタン友好のためにと我慢した最悪の服飾展示会が終わり、
この後政府関係の要人たちと民間の企業が我々を出迎えカラチの商工会議所に連れて行かれる。そして早速会議で感想を聞かれる。

『先ほどの服飾はいかがですか』
同行の日本企業の一人が「悪くないです」と答える。

こんどは私が指名された。
極度の疲労でつい正直に言ってしまう。
「日本の女性はただでも要らないと思います。」

全員が鋭い視線で私を見た、横に座っているIBOの担当者が足をつついた。
しかしそれを無視してさらに発言を続ける。
「売りたいのならデザインは我々に任して縫製だけをしたほうが良いでしょう。」

会議の終わった後でパキスタンの役人が、私の側に寄ってきて
『貴方は韓国人ですか?』
「いいえ100%日本人です」
『私の知っている日本人は,けっして嫌な事は言わない、優しくて、紳士です』

 ナヌー;(私は野人か)

その晩、同行諸氏とホテルで食事、真っ先にビアーと叫ぶとIBOの担当者
「この国はイスラム教徒の国なのでお酒は飲めません。」

 ナヌー;(分かっていれば来なかった)

翌日予定変更して無理やり縫製工場に連れていかれる、私の発言のせいです。
同行諸氏にゴメンナサイと謝る。
そして縫製工場を見て驚いた、ミシンを踏んでいるのは全員男性、理由を聞く。
「この国では女性は外で働く事は出来ません」

 ナヌー;(これでは中国に勝てないぞ)

午後から観光大臣の前に連れて行かれる、例によって会議。

「わが国は世界に誇れるガンダーラ遺跡がある、日本人にもっと来て頂きたい、どうすれば観光客を誘致できるか皆様の意見を聞きたい」と大臣が切り出した。

私がしゃべれば日パ友好にひびがはいる。
なるべく目を会わさないように天井を見る。
それぞれが意見を言った後、危険を察したIBOの担当者は長く喋り続けたおかげで?私は一言もしゃべらずに会議は終わりを迎えた。
終わった後次の予定があるので失礼しますと席を立とうとすると大臣は一言も喋らない私をみて『貴方の意見も聞きたい』と言った。
IBO担当者は不安そうに私を見ている。

しかたが無いのでしゃべり出す。
「ホテルでお酒も出てこないような所に一般観光客は来ないと思います。日本人はイスラム教徒ではないのでホテルでは外人にはお酒を出すべきでは。」
ア〜また言ってしまった。

大臣は鋭い視線で私を見る。
『ホテルではお酒を出せませんが、日本からお酒を持ってきてホテルの自室でこっそり飲めば問題はない』 

ナヌー;(私は犯罪者か)

パキスタンの出張はほぼ日程を終え、最終の晩餐を残すのみとなった。


煙台−北京 地獄の旅 その1 プロローグ

中国出張で縫製工場のある山東省の威海市に行くには、北京からローカル線に乗り換えて,煙台空港に降りて車で3時間かかる。
当時まだ大阪から青島までの直行便が無くて一旦北京空港まで行かなければならなかった。

それは12月半ばの寒い日だった。
威海工場での仕事を終え、翌朝9時発の北京行きに乗るためにはAM5時に出発しなければならない。
その日は小雨濃霧、煙台空港に着けば霧は晴れるだろうと予測していたが空港に着いても霧は晴れず北京行きの飛行機が一向に到着しない。

今回は一人旅、北京発大阪行きは明日のPM2時。予定では北京で一泊して帰る予定だったので少しぐらい飛行機が遅れても大丈夫だ。

見送りに着てくれた工場長が飛行機が遅れている事情を調べてくれた。
「霧のため、飛行機が着陸できず北京空港に引き返した。今日は飛ばない、そのまま煙台市に泊まり明日北京に行きましょう」

『しかし明日の午前中は北京事務所に寄ることになっている、車で行くと何時間かかるのか?』

中国語のしゃべれない私の代わりに工場長が空港で客待ちしていたタクシーに確認する。
「約12時間でいきます」という返事。

『料金はいくらですか』

「日本円で2万円でいきます」
『安い!それではお願いします』

すぐさま決断して荷物を車に積み込む。

工場長が一言ぼそり、「私の給料の二ヶ月分だ・・・」
聞こえなかったふりをして別れをつげ車に乗り込んだ。

車が北京に向かって走り出しほっと一息ついて安心していた私だったが思えばこれが地獄への旅の始まりだったのだ。

煙台−北京 地獄の旅 その2

地獄への旅が幕を開けた前回のつづき


なんとかタクシーに乗り込み北京に向けて出発できた。しばらく走ってちょっと落ち着つく。時計を見ると現在9:30分、車の振動がやけに大きい。

よくみると内装はボロボロおまけにヒーターが壊れて動かない。雨はやまずいっこうに晴れない霧の中疾走する車の振動が一段と大きくなった。

パンクだ!! 

しかし運転手は車を止めようとしない。ガタガタと激しく揺れる車を運転しながらあたりを見渡し何かを探している。

運転手はなにかを見つけたのか突然車道から降りてあぜ道を走りだし一軒の民家に横付けした。
民家の人に事情を説明しパンクの修理道具を借りる。

どうやらスペアタイヤは持っていなかったみたいだ。まわりに何も無かったらどうしてたんだろうとぼんやり考えているうちに修理が終わる。

車に乗り込み仕切りなおしに走り出す。車道に戻るためあぜ道を登るが雨でぬかるんでいたので登らない。空転するタイヤ、板をかますも効果なし。仕方無しに私と修理を手伝ってくれた民家の人と二人で車の後ろを押す。押す。押す。

それでも空回るタイヤから泥水シャワー。背広も顔もどろどろになりながらなんとか登りきった。

旅はまだ始まったばかり、北京ははるか遠く。ビジネスで来た中国でなんでこんな目に会うんだとへこんでいる私にさらなる悲劇が襲うとは想像も出来なかった。


パキスタン視察 その3 要人からの突然のベル



大手企業が辞退する中、旅費ただにつられてやってきたパキスタン。疲れの為か失言の嵐で日パの間に緊張が走った前回のつづき。


パキスタン出張の最終日、日本から来たメンバーで食事に行く予定だったがIBO担当者は疲れている事を理由に辞退する。

どうも私のせいで辞退したみたい。申し訳なかったと反省しながらその他の同行諸氏とホテルで食事をし、終わると自室に戻りテレビを見ていた。

すると電話が鳴る。誰だろう、電話に出るとなんとパキスタン政府の要人。
ドキッとするも話を聞くとどうやら貴方の意見をもっと聞きたいとのことだった。
今から迎えに行くと有無をいわさぬ雰囲気、しかたなしに承諾。

現場に到着すると18人くらい座り今から食事するところだった。
テーブルにはミネラルウオーターが置いてありなぜか赤い布が巻いてある。

一人が立ち上がって『ミネラルウォーターをビールと思って飲んでください。』

せっかく招かれたので私も立ち上がってご挨拶
『我々をこの国に招待してくださって有難うございます。私は不思議に思うことが一つある。』と話し始める。

すると皆が鋭い視線で私を見る。

「この国のえらい人たちはビールも飲まないのにお腹がでている。今、原因が分かりました。ミネラルウォーターをビールと思って飲んでいるから胃の中でビールに変わるのですね。」
軽くジョークを入れるとパキスタンの人達のこわばった顔がゆるんだ。

調子に乗って挨拶を続ける。
「さすが5000年の歴史、インダス文明の発祥地、尊敬します。」

笑いが起こる。もう完全に警戒心は解いてくれたようだ。

「今日は思い切りミネラルを飲んで酔っ払いたいと思います。」
そう締めくくると会場は笑顔と拍手でいっぱいに。

なごやかな雰囲気で食事が始まった。
食事中隣に座っていた要人の一人が私にしゃべりかけてきた。

『貴方は口も悪いが冗談もうまいね。私が会った日本人は皆様上品でおとなしい人だったよ。貴方のような日本人は珍しい。』と笑いながら言った。

この後、パキスタンの産業やビジネス、未来について語り合った。アドバイスとまではいかなくとも向こうもおおいに参考になると言ってくれた。

晩餐も終わりを向かえ大いに日本パキスタンの友好もはかれ、私の役目??も終わった。

口を滑らしつい正直に言ってしまったことから始まったパキスタン視察。
何事も正直に付き合ったり、向き合うのが大事なことなのかなと思った旅であったが帰りの飛行機でふと気づく。

まったく観光していないではないか!!!

世の中にただは無いということを思い知った旅でもあった。



煙台−北京 地獄の旅 その3

パンクしたあげくぬかるみにはまって何とか脱出した前回のつづき


本道に出た車は北京に向かって走り出す。
まだ雨も止まず、町を通り過ぎ、人家の全く無い田舎道を走る。依然雨も止まず時計を見ればPM7時、周囲は真っ黒な闇、明かり一つ見えない。

車のライトを頼りにひたすら走っていると突然車にドンと衝撃、何かにぶつかったみたいだ。鹿か、猪か、左側のライトが壊れた。運転手は気にせず右側のライトだけでひたすら走る。

ライトに照らされるのは雑木ばかり、この道は本道からはずれているのではと思い運転手に確認するも言葉が通じない。運転手の不安そうな顔、道に迷ったに違いない。本道を捜すためにまた走る、しかし明かり一つ無い闇夜、これは朝が来るまで待ったほうがいいのではと運転手に説明するが理解しない。

すると突然ブレーキ、前につんのめる。何事だ?運転手を見ると青ざめている。
フロントガラスに広がる景色を見て理解する。

道がない!! 

ライトに照らされたのは断崖絶壁、危機一髪。

さすがの運転手も朝まで待つことを理解。
時計を見ればAM4時過ぎ雨も止んでいる。北京までの旅はまだ終わりそうになかった。

煙台−北京 地獄の旅 その4 あの老人は・・・

道に迷って林道を走っていると突然道が無くなって危機一髪だった前回の続き


少し緊張がやわらいだとたん猛烈な寒さを感じる。
このまま車の中で夜が明けるのを待たねばならない。トランクから下着とカッターシャツを取り出して着替えた。背広の代わりはない、泥だらけのまま寒くて震えが止まらない。

下着を2枚重ねて着ても暖かくはならなかった。少しでも体温を逃がさぬよう体を丸めひたすら朝を待つ。体は極限に疲れているが眠れるはずはなかった。

やっと周囲が徐々に明るくなってきた。しかしまたしても霧が発生、少し明るくなっても周囲が見えない。霧が晴れるまで身動きとれない。変わらぬ寒さの中もうろうとした頭で考える。今どの時点にいるんだろうか? 北京まであと何キロなんだ?

道に迷いながら闇夜の中を走るため20キロ前後のスピードで走ってきた。どう考えても半分くらいしか来ていない。

天津までいけば北京行きの高速道路があるのでなんとかなる、しかし霧はいっこうに晴れない。
運転手が小さく叫んだ、霧の向こうに小さな明かりが揺れている。止まっている車にだんだん近づいてくる。

助かった! 人がいる。明かりが我々の前で止まる。そこには白髪の長いあご髭、白いゆったりとした服、手にはカンテラを持った老人が立っていた。運転手が勢い込んで車から飛び出しその老人に喋りかける。

話がついたのか二人は車に戻ってきて、老人は助手席にゆっくり座った。どうやら道案内してくれるみたいだ。霧も少し晴れてきた。老人の指示に従って走り40分ぐらいで広い本道に出た。

老人が車から降りる、私も老人にお礼をするため急いでお金を取り出して車から出る。老人は霧で霞んだ雑木林の方にゆっくりと歩いていく。追っかけようとすると運転手が小便に行ったとジェスチャーで教える。

老人が帰ってくるのを30分ほど待っただろうか、しかし霧の向こうから老人が再び現れることはなかった。

これ以上待つことはできないと運転手に促されて、しかたがなしに北京に向けて走り出した。車の中にはその不思議な老人のお香のようなにおいがしばらく消えなかった。


煙台−北京 地獄の旅 その5 旅の終わり

不思議な老人に導かれ雑木林から脱出した前回の続き


老人に助けられ雑木林から脱出、車は本道を走ること数時間、何も無い景色からやっと町並みが見えだし天津市に入った。

午前中に北京事務所に寄る予定だったが時間的にもう無理だ。気力体力的にも無理なのは言うまでも無い。午後2時の帰りの飛行機にも間に合うかどうか。

車は高速に乗りおんぼろ車が100キロを超えて走る。小さく激しく小刻みに振動する。恐怖で緊張するもやっと北京に到着。

時刻は1時過ぎ、間に合った! 飲まず、食わず、眠らずの27時間、長かった旅もやっと終わりを迎える。

運転手にお礼を言って約束の2万円にプラス3万円を払う。生気を失っていた彼の顔が嬉しそうに笑顔、お互い命が助かってよかったですねと握手する。言葉が分からなくても同じ気持、強く握り反し別れを告げ空港の中へと急ぐ。

チエックインを終わり泥まみれの背広のまま飛行機のシートに倒れこむ。スチュワーデスが飲み物の種類を聞きに来る。消え入りそうな声でビールをオーダー。持って来た時には目を開けることさえしんどくて反応できない。スチュワーデスさんから優しい言葉をもらう。「ま〜ご苦労なさって」

熱いものがこみ上げてきた。

日本に無事帰国してあれから時が流れふと考える。
私を助けてくれた雑木林の白髪の老人はいったい何者だったのだろう。
彼に出会ってから中国でのビジネスが軌道に乗り出したのは偶然なのだろうか。

私は今でも彼は仙人だったに違いないと思っている。

あれから何度となく中国にいったがその不思議な老人に再び出会うことはなかったし,これからも出会うことはない。

なぜならもう二度と煙台から北京までタクシーで行かないから。




中国出張の思い出

先日上海から四川省の成都に飛んだ,15年ぶりである、真新しい飛行機の機内で遠い昔を思い出したら、胸が熱くなった。

思い起こせば初めて中国をおとづれたのは、繊維会社を営んでいた私がいまでは当たり前になった中国での製造に中小企業でありながらその可能性を探ろうといち早く動いたのがきっかけだった。

工場視察の目的で当時なにも知らなかった中国に(・・・いや、本やニュースで知ったつもりになっていた、結果的に本当の中国を知らなかったのだが)飛んだ私はいろいろなことに驚かされた。

これは目的地に向かう道中での信じられないお話の一つ。

当時飛行機はプロペラで外見も機内もボロボロ、
上海空港で乗り場がわからず,目的地の成都の文字を探すがどこにも無い,出発の時刻が刻々と迫る、この飛行機を逃すと三日後の便になる、どうしても乗らねばならない、心臓が締めつけられる。

チケットを見せながらたどたどしい英語と中国語で聞きまくるが通用しない、その時一人の中国人がチケットを見て私の手を引き、滑走路に連れ出し,小型三輪車に乗せ、猛スピードで成都行きの飛行機の所まで連れて行ってくれた。

ところが三輪車を降りたとたん、飛行機のプロペラが回り始めまさに離陸準備をしていた、おもわず飛行機の前に飛び出し両手を広げてストップストップと叫んだ私の必死さが通じたのか、ドアーが開きタラップをかけてくれてなんとか乗り込むことができた。

一息ついて機内を見渡すと中型機で数十人乗れるのだがお客さんは5〜6人しか乗っていない。やがて飛行機は滑走路を走り始めた。その時お尻に衝撃、浮いて落ちた感じがしたのだがきにせずそのまま飛行機はとびたち私は疲れからいつのまにか眠ってしまった。

成都まで約3時間のフライト、途中眠っている私の顔にぽつりぽつりと冷たいものが・・・目を覚まして上を見れば機内の天井に水滴が溜まっている。窓の外は雨。

まてよ、飛行機が雨漏りするはずが無い、きっと空調の水滴に違いない、しかし季節は冬、クーラがかかっている様子も無い、心臓がゆっくりと氷りつきはじめる。スチュワーデスをよんで水滴を指さす、彼女はやおらタオルとガムテープを持ってきて、拭き取った後にガムテープを貼り、小さく舌打ち、私の顔を見てニヤリ、そのニヤリは心配するなのニヤリか、覚悟しろのニヤリか?

そうこうしているうちになんとか無事に成都に到着,視察予定の工場の方がお出迎え,車中で,おもいきり愚痴る、
「あのようなボロボロの飛行機をなぜ使う、恐ろしくて生きた心地がしなかった、」
『大半の飛行機はロシアの払い下げ機、時々落ちるので我々は、上海に行くときは汽車に乗る、』
「汽車だと何時間かかりますか」
『約25時間、』
「あの硬い座席に一昼夜我慢できない、やっぱり危険でも飛行機を使います、しかしあのボロボロの飛行機は何時廃機するのですか?」
『落ちた時が廃機です。』
「・・・・・・・・・」

これがオチやシャレで言ったのでなく彼らの普通のセリフだったと気づくのはこれよりもうちょっと先の話。

中国でのちょっと臭うお話

昔、山東省の煙台の工場に行った時のちょっと臭うお話


その日朝からお腹の調子が悪くて、工場に着いた時に真っ先にトイレを探して駆け込んだ。駆け込んでなんだか違和感があることに気づく。

トイレは天井が無く、個別の仕切りもなく周囲を囲んでいるだけで、地べたに穴を開けその穴をまたいでするようになっていた。穴は6つほどあったがどの穴もウンチが盛り上がり、またげばお尻に、盛り上がったウンチが付く。

どうすればいいか思案にくれていると突然、中年のおばさんが入ってきて、盛り上がったウンチを側にあった棒切れで端に追いやり真ん中をへこまして,小便を始めた。私は茫然自失、トイレは男女の区別が無い,大,小の区別もない、おばさんは私を無視して終われば平気で出て行った。
トイレの中はハエが飛び回り、生きた心地がしなかった。

やっと打ち合わせが終わり工場の最高責任者である総経理が
「食事の用意をしているから食べていってください。」と言った。

トイレのこともありカルチャーショックを受けていた私は
『私は疲れているので、早くホテルに帰りたい。』とお断りすると
「貴方の二人の部下はきっとお腹をすかしています。是非食事をしていってください。」
そこまで言うならと私はご馳走になることに。

宴会を準備してくれた食堂には大きな丸テーブルがあり、私と総経理が並んで着席すると、後から副総経理、担当者、運転手と、その他知らない人たち、総勢12〜13人が食卓に隙間もなく座り宴会が始まった。

まずビールで乾杯、ビールが注がれるコップは透明度が濁り、指紋が付いている。私は目をつぶって飲み干した。その時一匹のハエが料理の上に止まる。このハエはきっとトイレにいたハエだ、食堂とトイレの距離は30mほどしか離れていない、そう思ったらもう何も口に入らない。

ビールの次は、度数の高いお酒で乾杯。一口飲めば喉が焼け付く、5分おきに乾杯がある。しかも隣の総経理が私の杯にお酒を注いで、まず自分が飲み干して、私に飲む事を強制する。断れば失礼になるので我慢して飲まなければならない。お腹には何も入っていないのでよく酒がまわる。でも倒れるわけにはいかない体力はすでに限界を超えていた。

2時間ぐらい続いた宴会がやっと終わり、ホテルまで送ってもらった。地獄から生還した気分。

中国の旅は何時も体力と根気の勝負だ。

中国はなんでも安い

これは昔に中国承徳工場に出張したときの思い出

承徳市は北京市から約4時間、王様の別荘もあり風光明媚な美しい町。
北京から承徳まで工場のワゴン車に揺られて眺める雄大な景色は、
精神を高揚させ、中国掛け軸の絵の中に入ったような気分にさせる。

季節は3月半ば、雪がまだ道の端々や山に残り、景色と相まって何ともいえない
幻想的なムードをかもし出す。
うっとりと窓の外を眺めていると、道の端に老人が倒れていた。おもわず運転手に停止を命じ、車をバックさせ老人にかけ寄る、老人はすでに生気を失い息をしていない。運転手に近くの村まで運ぶことを指示するが、言葉を理解しないふりをして無視をする。私の腕時計を指さして、早く車に乗れと動作で、急がせる。しかたなしに
出発したのだが後ろめたい気持で、「きっと家族が捜しに来て遺体を引き取ってくれる、すでに死んでいるから、仕方が無い、とりあえず後方に向かって手を合わそう、」
自分に言い訳しながら、暗い気持のまま承徳市で2泊した。工場の通訳さんに事情を説明してお花を用意させ、運転手に現場に着いたら必ず止まることを通訳さんから指示してもらい出発する。跡地に花を手向けるべくして現場に到着、しかし老人の死体はそのまま放置されたまま静かに眠っていた。100m後方に何軒か家が建っている、死体に気付かないはずがない、仕方無しに老人の死体に花をそえ合掌し北京空港に向かった。

なんでも安い中国、人の命も安い"

 ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします。


ブログランキング

人気ブログランキングに参加しています。 ↓クリックすると投票されます。

励みになるのでお越しいただいたときはクリックしてもらえるとうれしいです。
 m(_ _)m         ⇒ランキングを見る

SPONSORS

最近の記事

アンケート

最近のコメント